映画百本
お世話になったあの人へ
『マリー・アントワネット』Marie Antoinette
監督・脚本:ソフィア・コッポラ
2006年/アメリカ・フランス・日本/2時間3分/カラー/ビスタサイズ製作:ロス・カッツ/ソフィア・コッポラ
撮影:ランス・アコード
美術:K.K.バーレット
音楽:ブライアン・レイツェル
衣装:ミレーナ・カノネロ
出演:キルスティン・ダンスト/ジェイソン・シュワルツマン/アーシア・アルジェント/マリアンヌ・フェイスフル/ジュディ・デイヴィス /リップ・トーン/スティーヴ・クーガン/ジェイミー・ドーナン
これは実話(事実)に基づいた物語です…最近、よく映画本編冒頭でみかけるフレーズです。その文句が持つ、これから作品を鑑賞する観客に与える効用については改めて書くまでもありませんが、およそこの文句が効果を発揮するのは、その対象が世間ではまだほとんど知られていないマイナーな存在であることが条件の一つにあるのではないでしょうか。そしてもう一つは、そこで題材として扱われる「実話」が比較的、人々の記憶の近くにある時代に起きた事である、記憶の手が届く範囲であることが重要である気がします。その手の届く距離とは、まだ昨年のことかもしれないし、10年前かもしれない…たぶん、自分が生まれる以前でも効果がある、いや、ぎりぎり3世代前くらいの距離ならば「実話に基づく」というフレーズは有効ではないかと考えます。しかし、ある距離を超えた途端、その文句の効用は無くなってしまう。事実ではあろうことなのに、冒頭で使われることは無くなってしまうのです。例えばNHKの大河ドラマなどで、その冒頭に「これは事実に基づいた物語です」なんてテロップは登場しそうにありません。そのドラマの主人公は教科書に載っているほど有名であるだろうし、物語は実際あったであろう出来事に拠っているにもかかわらずです。もちろんそれは、一般に既知の事柄であるから事前のコメントは必要ないのだ、とも言えますが、必要不要というよりもむしろ、現在から距離を隔てていくほど、過去に遡っていくほど、それが「事実」であることの「現在に対する」効用が希薄化していくのです。
SFの世界では一般的なパラレルワールドというアイデア。主人公が立脚している舞台と同時進行しながら異なる歴史が展開していく別の世界が複数存在するというものですが、およそ僕の考える「歴史物」というのは、検証対象が過去のものになった時点ですでに、現在からその時代を見る視点にはあらゆる立場が在るがゆえ、そこから導かれる「事実」がパラレルワールド同様の状態なのです。つまりその世界は語り部による解釈の数だけ存在してしまうことになる。別に過去になってしまった事象だけでなく、最近記憶に新しいところでは「冥王星は惑星か否か」という議論も、単純に語る側の解釈によってどうにでもなってしまうという良い例です。
しかし、作り手はそれを認識しているがゆえ「実話に基づいた物語」フレーズが使われるのです。もし確固たる信念があるならば、単純な話、もっとストレートに「これは真実です」と断言してしまえば良いこと。しかしそのフレーズには狂信めいた空気が感じられますし、僕の記憶の中にそのようなフレーズを使った映画は見当たりません。結局、歴史とは「正しさ」を見出そうとしたり、「唯一の真実」を確定したり、また、正しくあるように再構築(物語化)しようとするものではなく、これから先、将来においてより良い状況を作り出すため、少なくとも再び失敗しないための材料を提供する素材・ツールに過ぎないのです。そう考えると、様々な立場によってより多くの解釈が施された作品が作り出されることは、それなりに有効なのかも。ともあれ、視線は常に来るべきものに対して向けられているべきでしょう。
以上のように考えている僕は、さて、本作におけるマリー・アントワネットにまつわるエトセトラが事実であるかどうかなんて一向に構うわけもありません。時間と場所が、今の僕からはあまりにも遠く離れているからです。フランスを舞台にした作品であるのに、登場人物は無頓着に英語をしゃべり続けているというのも、別段批判の対象ではありません。それはウォシュレット時代に向けて製作された、「清潔な画しか現れない昭和」を描く『ALWAYS 三丁目の夕日』と同じレイヤーに属しているだけのことです。むしろ「ALWAYS」の提供する清潔なノスタルジーの与える影響は、上述した「記憶がまだ手の届く距離にある」という点で考慮すべきところが多いように思えます。
では、僕が本作で注目したのは何処か。実は歴史にまつわる時代考証などとは全くかけ離れたところにあるのです。普段、何気なく観ている映画ですが、僕はこれまで役者が身にまとっている衣装にはまるで無頓着でした(それは実生活における僕自身のファッション感覚に如実に現れています)。単にその時代・状況設定に違和感なく溶け込んでいればそれで十分役目を果たしているものだったのですが、果たして本作において主人公アントワネットは、一体何着の衣装に着替えるのか?衣装は作品の時代設定が遠く離れればそれだけ「既成概念」で容易くまかなえてしまい、もしそれが日本における70〜80年代、つまり「記憶がまだ手の届く範囲」にあるとしたら、当時流行りの服装をリサーチし用意するのはより難しいのではないかと思われます。自分の記憶にあるものと僅かな差違があれば、すぐに興ざめしてしまうおそれがある。もちろん僕には彼女がまとうドレスが当時に存在したものを忠実にシミュレートしたものかどうかは分からないし、本作のために衣装デザイナーが創作したものかもしれないのですが、それはともかくとして、映画のために用意された華やかな衣装の数にはひたすら驚くしかありませんでした。まがりなりにも本作はコスチューム・プレイ(歴史劇)。そのコスに注目しないわけはありません。また一つ、映画を観る際の楽しみ方が増えました。
もし再び本作を観る機会があれば、少なくとも主人公アントワネットが2時間という上映時間の中で何着の衣装に着替えるのか、それを指折り数えようと心に決めています。


