映画百本

外交能力ゼロのツケ

『ミスト』The Mist
監督・脚本・プロデューサー:フランク・ダラボン
2007年/アメリカ/125分/ビスタサイズ/ドルビーデジタル、SDDS,DTS

原作:スティーヴン・キング
プロデューサー:リズ・グロッツァー
撮影:ローン・シュミット
クリーチャー・デザイン&特殊メイク:グレゴリー・ニコテロ
視覚効果監督:エヴェレット・バレル
出演:トーマス・ジェーン/マーシャ・ゲイ・ハーデン/ネイサン・ギャンブル/ローリー・ホールデン/アンドレ・ブラウアー /トビー・ジョーンズ/ウィリアム・サドラー/アレクサ・ダヴァロス

 霧の中にただならぬものを感じ取った住民達がスーパーマーケットに閉じこもって以降、そのただならぬものがいよいよ襲いかかってくる辺りからカメラの動きにちょっとした変化が表れるのですが、さて、その動きは手持ちカメラによるものだと分かりはするものの、リアルなライブ感を醸し出すほどのラフさは抑制されており、要所要所ではキチンと構えたりで、果たしてこれは新しい効果を狙ったものなのかどうか判断しかねるなと考えていたところ、もうそんなことはどうでもよくなりました。これは単に(A級かB級かはさておき)モンスターパニック映画なのです。

 モンスターパニック映画となれば、かねてから書いているように「追いつめられた人間が対モンスター戦略を練っている時が一番面白い」事になるのですが、ではこの映画にはそのポイントとなる「作戦会議」があるのかと言えば…もちろん、パニックに対して何かしらの策を講じるくらいに打ち合わせはあるものの、少なくともこちらがワクワクするような会議はありませんでした。僅かに設けられようとするなけなしの作戦会議は、あろうことか霧の中にいるただならぬものの襲来を、人の持つ業に引き寄せられた逃れられぬ運命なのだ云々と、ただただ集団の不安を煽り立てるキャラクターの存在によって台無しにされてしまうのです。

 話は逸れるのですが、このような嫌われ者キャラクターは多くのスティーブン・キング原作物に必ず現れる予定調和な装置なのでしょうか。古くは『キャリー』、最近では『ショーシャンクの空に』や『グリーンマイル』など、まあ、どれも僕はテレビ放送を途中から観たもの数本くらいしか無いので確信は無いのすが、そのどれにも主人公をとことん苛め抜く人間がおり、観る者の感情を煽りに煽っておいて、その溜まった鬱憤を明らかに「快感」を伴って開放させる為、必然として「死ぬ」べき装置となっているのです。ネット界隈では、感動した映画として『ショーシャンクの空に』が挙げられているのをまま見かけるのですが、あれなどは主人公を利用して裏金をため込んだ所長だったかが、最後に自殺へ追い込まれる、そこが一番の見どころになっているだけの作品だと思うのですがどうでしょう。とどのつまり、そこには(主人公に気持ちを肩入れしている場合において)ある種の快感が引き出されるよう仕掛けられているのです。

 閑話休題。個人的に注目していた作戦会議もなく、そればかりか同じ人間にも翻弄される主人公は、もちろん当然のようにただならぬものと戦うのだけれど、当初のそれは言わば純粋に敵から「身を守る」為の戦いだったものが、やがて次第に「愛する者を守る為に戦う」という状態に変移してくのです。この主人公を取り巻く状況の変移こそが、本作における今回の見所です。

 「愛する者を守るために戦う」。時として争いを肯定するために免罪符の如く使われるフレーズですが、この文句が使われる状況において重要なのは、その言葉を発する人間の心理的内面や価値観にあるのではありません。そこで注目すべきなのは、俯瞰から見る「戦況」なのです。このような状況では、敵の手は自分の愛する者たちのすぐ傍まで迫っているはずであり、もしかしたら周りを包囲されているのかもしれない絶対絶命の場合であり、大きく戦局で言えば、もうすでに末期であり「結果が見えている」。そして、そのような身動き出来ない状況に陥った原因が一体どこにあるのかを考えると、最も大きな要因として挙げられるのは、戦略ミスや戦力の大小ではなく、外交面の失策(あるいは暗号など情報処理能力の低さ)なのです。相手と交渉するにあたり、互いの損得のバランスを如何に取るか。すでに均衡を欠き、こちらが不利な場合においても、せめて被害を最小限に留めるために、何を差し出して何を得るのか巧みな駆け引きを行う、そのような交渉がなされなかった場合、往々にして人は「愛する者を守るために戦う」羽目に陥るのです。言わば外交能力の欠如が、無益な戦いを誘発し、さらには戦いを劣悪なものにしていく。本作において、敵の襲撃は侵略的で有無を言わさぬものがあるのですが、せめて共通言語を持っていれば何かしらの交渉は出来たかもしれないものの、しかし相手の素性が言ってしまえばデカい虫なのですから、端からコミュニケーションが取れるはずもありません。まあ、同じ言語を使っていようが、そもそもコミュニケーション能力に欠陥があれば、無駄に争いを引き起こしてしまうのは、先の「必然として死ぬ舞台装置」を見ても明らかなのですが。

☆ちょっと一言☆

■ところで相変わらず英語のヒアリング能力ゼロの僕ですが、中盤で父親に嘆願する息子の言葉は、本当にあの翻訳通りに発せられているのでしょうか。立場を巧みに倒置させて、奇妙に曲がりくねったフレーズは、あの状況であの年頃の少年が口にするとは思えないものになっているのですが、そのせいでオチが分かってしまいました…。お粗末です。

■本作には大きなオチの後、余興として小さなオチもあるのですが、そこで死んだ者と生き残った者を分けたものは何か?どちらの判断が正しかったのか?については、特に論議するものは無いと思います。あのような末期的状況はカオスであって、言わば量子力学での「状態の重ね合わせ」みたいなもの、どちらに転んでも、その結果は真ナリです。

■「本当に怖いのはモンスターではなく人間だ」っていう言説にも飽きました。繰り返しますが、少なくともスティーブン・キング作品においては、あれは単に快感を引き出す為の舞台装置に過ぎません。

■さらに戦う理由を蒸留していくと、辿り着くのは「生き残る為に戦う」ことになるのですが、その目も当てられない悲惨な状況が見事に作品の質に貢献したモンスター映画が、やはり『エイリアン』や『遊星からの物体X』なんですよねえ。