映画百本

腹が減るのです

『愛の予感』
監督・脚本・主演:小林政広
2007年/日本/102分

製作:小林直子
撮影:西久保弘一
助監督:川瀬準也
編集:金子尚樹
録音:秋元大輔/横山達夫
照明:南園智男
出演:渡辺真起子

 ここのところめっきり食欲が衰退したものの、腹が減れば一人前に「グググ〜」と大きな音をさせるところは若い頃から変わってないので、劇場へ出向く前には少なくとも上映時間は持ちこたえるように腹ごしらえをしておくのですが、もちろん本作の鑑賞前にもきちんと食事を取っておいたにもかかわらず、予想外に映画鑑賞中やたら腹が減ってしまい非常に困りました。明らかに主人公が食事しているシーンに誘導されているのは分かったのですが、彼の摂る食事がとても美味しそうに思えたのです。別に豪勢なメニューでもない、ただの社員寮の食堂で提供される素朴な食事にもかかわらずです。
 ご飯、みそ汁、主菜に卵…。そんなありふれた内容の食事を、食卓へ運び、一人箸でつまんで口へ運ぶ。その単調かつ万人に日常的であるはずの運動を、退屈と感じることなく、むしろ得も言われぬ何かを感じながら見入ってしまう。

 一般的に映画で描かれる食事の場面は一家団欒の時であったり、親しい友人や恋人を交えたものであったりすることが多いのだけれど、ここでの食事は主人公をカメラの中心に据えて淡々とした、まるでコミュニケーションの無いものになっています(周りに他の社員もいるのだけれど、全く孤立している)。通常、劇中における食事の持つ役割が、物語の展開を促すことになるセリフが発せられるきっかけ作りの場であったり、登場人物のキャラクター設定や人間関係を短時間で効率的に知らしめることに活用されたりするのですが、ではここでの食事は何の目的を持って描かれているのかと言えば、それはただただ単に、時間が堆積されていく様子なのです。さらにこの食事を摂るという行為を過剰とも言えるほど、幾度も反復して映し出しているところも、時間の堆積が日々確実に進行していく様子を強調していく。

 およそ映像作品においてミニマル的手法を用いる場合、それは同様にミニマルな構造を持つ音楽と併せて表現されることが多いように思います。クラブで流れるようなループ・ミュージックや、古くは祭りばやしも同様、1小節ほどの短いフレーズを周期的に繰り返すことによって気分が高揚してくるのは多くの人も経験していることでしょう。特別、実験的な映像作品でもない本作が、このようなミニマルな手法を用いているのは新鮮なのですが、しかしここでの反復は、気分を高揚させ、注意力を長時間維持させるにはその単位時間が長すぎるのです。加えて、音楽など皆無です。
 世間では、コミュニケーションを欠いた食事など食事ではない、それはただエサを喰っているのだ、という意見もあります。それにもかかわらず、前述したように主人公の摂る食事は美味しく見え、その執拗に繰り返される反復にいらだちも起きないばかりか、その味に誘われて腹が鳴りそうになる始末。その理由はどこに在るのか。

 それは主人公の繰り返す、労働の描写にある。

 炎を扱う工場での彼の労働もまた、ここでは当たり前のように日常的に繰り返されるイベントなのですが、その汗と肉体的疲労を伴う運動の後に差し出される食事は、その労働に対するこの上ない報奨なのです。全く華やかさは無いけれど、仕事を終えた後の食事には確かな魅力がある。友人や家族を会話を楽しみながら食事を摂ることが、もしそのコミュニケーションを重視するあまり、食する行為自体が繋ぎとしての役割しか持たない状況になるとすれば、それこそむしろ「餌」の時間なのかもしれません。

 さて、一般に憎しみも愛情の一つの奇形とするならば、この状態下で適度な距離を持って熟成されて行く先が、翻って愛に変形したとしても、特に不思議ではありません。やはりそこで必要なのは時間であり、もちろん時間操作の簡単な映画という表現方法ではあっても、ここでは安易に省略せず、それを堆積させるために反復を用いることは必要だったのです。その時間の堆積してゆく様子こそが、本作で最も価値のある部分なのではないでしょうか。

☆ちょっと一言☆

■人は気付かないうちに恋に落ち、そして知らず知らずのうちに誰かを愛してしまうこともあるでしょう。が、人を愛する以前に、やっぱり誰でも必ず腹は減る。

■エンディングのテーマ曲が意表を突いてました。

■帰宅後、またメシを喰ってしまいました。