放談ラジオ音響系
読後の一言:中の前編(1/2)
前回からの続き。つらつらと一言感想を。

前回からの続きです
読後に一言書くだけなのでさほど労力は要らないのですが、やはり平日仕事を終えた後でモニタに向かうのは、なかなか厳しいものがあります。そこで全部まとめるのは止めて数回に分けることにしたのですが、当初前編・中編・後編と3回にしようと考えていたところ、量的にキツイので4回に変更決定、そこで「前・中・後」以外になにかうまく4段分割の表現が無いかなあ…と悩んだのですが全く思い付かなかったので、まずは「中の上編、中の下編」としてみました。しかし「中の上、中の下」って何かランキングしているみたいで本に失礼だったので、「中の前編、中の後編」と、これまで目にした事のない表現に落ち着いたのですが、この言葉遣いって大丈夫なんでしょうか?
【fig.1】『Search〜きみがいた GID(性同一性障害)ふたりの結婚』平安名祐生・恵/徳間書店/2000年/266p/¥1,600(税別)タイトルと著者の二人がわざわざ表紙を飾っていることから察しがつくように、男性と思われる祐生氏の、出生時の性別は女、片や恵さんの出生時の性別は男でした。そんな二人が運命的な出会いを経て、やがて結婚に至るまでの波乱万丈。以前から性同一性障害には関心を持っていたのですが、なぜそんなに関心があったのかと言えば、置かれた状況の心理的状態がなかなか想像出来なかったからです。この主題を扱った映画や小説は山ほどあるのですが、彼らの内部へ同化できない苛立ちが常に付きまといました。男である自分が、しかし身体は女性であるという状況をどうしたら理解できるのか。そこで数年前に本書を手に取ったわけですが、当初、序章の文章があまりに拙いのでその場で挫折。考えてもみれば当たり前で、彼らは作家でもなければライターでもありません。しかし今回の企画で再び読み始めたところ、次第に彼らの置かれた状況に感情移入し始めたのです。病人である本人の手によって書かれた文章であることが、実は重要だった。いくらBased on true storyであろうが、映画や小説ではなかなか表現しきれない、リアルな「現場での主観による苦労話」に触れられる、実はそれが最後まで読み続けられた理由なのです。苦労話ってなかなかリサーチや想像で作れるものではなくて、彼らの立場になってはじめて気付かされる不条理の多いこと!圧巻は後半に書かれる恵さんの手術の場面で、僕は普段通勤電車で読書しているのですが、貧血を起こしそうになりました…。ともあれ、「愛には色んなカタチがあっていい」「そしてそんな愛に対し、寛容な社会であれ」と締めさせていただきます。ところで、あまりテーマとは関係ないのですが、祐生氏骨折時の奇妙な三角関係における女性同士の静かなる闘いには笑いました。
【fig.2】『学校を救済せよ』宮台真司・尾木直樹/学陽書房/1998年/286p/¥1,500(税別)僕と同世代の人達はとっくに学校に通う子供さんがいたりするわけですが、学級崩壊なんていう言葉が生まれて久しい今、果たして世の親御さん達はどのように今の学校を見て評価しているのか。もし僕が家庭を持ち、子供もいたとしたらそれは切実な事になるんでしょうが、なにぶんフラフラしながら自分のことだけを考えて毎日を過ごしているので今一つリアリティがありません。そんな僕でも学校問題と聞くとすぐ思い付くのが「いじめ」「登校拒否」「校内暴力」なのですが、近年の傾向として暴力は鳴りを潜め、その負のエネルギーがいじめに向かっているのは察しがつきます。陰湿化した集団的いじめに対し、道徳観や善悪のような精神論をかましたところで何の役に立たないことは大人も子供も分かっています(分かってないのは唯一教師の方だったり)。そこで本書では、いじめに割く時間の余裕が無くなるような学校システム「個人カリキュラム制」の提案がされているのですが、個人的には割と賛成だったりします。というのも、僕は今普通のサラリーマンですが、そこで必要なスキルというのはフリーターをしていた時期に独学で習得したものです。別に専門学校やスクールに通ったわけでもありません。自分が強く興味を持っているものがあれば、「学ぶ態度」なんてものは自然と出てくるのではないでしょうか。自分の時間を十分に確保できたという意味で、今では悪しき制度だったとして批判される「ゆとり教育」なんぞは、逆に僕は羨ましくも思うのですが、結局破綻したのは確保できたゆとりの時間を関心あるジャンルに使うように仕向けられなかった教育カリキュラムの問題です。円周率を3にするなんてことは、まず何よりも数学への興味を失わせたに違いありません。それって逆効果ではありませんか、πは無限に続くから面白いのに。さて、それでもなお、いじめが無くなることはないハズ。僕が子供に言ってあげられる言葉があるとすれば「もしいじめられたり、面白くなかったら、学校なんて行かなくてもいい」という価値観や人生観くらいです。そういう観点から導かれる登校拒否はむしろ歓迎すべき、そこで確保できた時間はマンガを描くことや楽器を演奏することに使ったり、経営や株に興味を持ったなら、まず先にその分野にどっぷり浸かれば良い。そうすれば自ずと足りない知識を自分から学ぶようになる、と。グローバル化によって世界が合理的で均一化され、コスト重視になる中、平均的な人物でいることはただの足かせに過ぎず、特殊な分野で尖った存在になるには有効な積極的登校拒否をむしろ推奨、親はそれを安易に否定しないような人間であるべきでしょう。と、感想を離れて自分の主張をつらつら書いてきて、ふと読み返して気付きました…、それ「学校」を救ってないじゃん。
【fig.3】『終わりなき日常を生きろ』宮台真司/筑摩書房/1995年/190p/¥1,300(税込)「終わりなき日常」ってどういうコト?と思って読んでみると、つまり極端に要約すれば、ハルマゲドンも奇跡も何も起きない、日々やり過ごして行くだけの毎日、ということらしい…。そんな毎日に耐えられるようになるにはどうしたらよいのか、にまつわる考察のアレコレ(注:ハウツー本ではありません)。つまりハルマゲドンに耐えられるようにするのではなく、日常こそが真の敵だったりするわけですが、そんな日常に耐えられなかった人々がオウムに流れてしまったということなのでしょうか。案外、「日常」って手ごわいですね。その象徴は学生なら学校、社会人にはもしかしたら通勤電車だったりして(だからオウムは通勤電車を狙った、とか)。最後の第四章でそれら静かなる困難に対峙するには、コミュニケーション・スキルを上げるしかないと展開するのですが、例えば上の学校救済本と繋げてみれば、学校でいじめられている子供が、その事実を親に告白することが出来るかどうか、そうできる人間関係を丹念に作り上げて行く技量が、家庭における世代を跨ぐコミュニケーション・スキルとして求められているのかもしれません。そこではまず「どんな子供にもプライドがある」ということを理解する必要があると思いますけど。

