放談ラジオ音響系

読後の一言:後編(1/2)

 しばらく続いた読後の一言も、今回で2007年後半分は終わりです。



これは一言なのか

 ちゃんとした感想文にはなってないし、かといってタイトルに掲げたような一言でもないし、この中途半端さは果たして良いのか悪いのか分かりませんが、特別大したもんではない、ということは確かです。しかし、自分が触れて何かしら感じたことをサラサラっと書き記しておくのは、なんとなくその都度自分に区切りを付けているというか「んじゃ次行こうか」みたいな気分にさせてくれるということに最近気付きました。なので映画百本の方もこれくらいの短さでパンパンと更新していけば良いのではないか、と思ったのですが、今年も時間は光の速さで過ぎて行き、取り戻すことが困難です。

【fig.1】『コンタクト(上・下)』カール・セーガン著:高見浩・池央耿訳/新潮社/1986年/307p・317p/各¥1,600

 以前まだテレビを持っていた頃、ジョディー・フォスターが主演していた映画『コンタクト』の放映を見たことがあるのですが(出来栄えは今一つでしたけど)、その原作本がカール・セーガンの手によるものだと知ったのはその後しばらく経ってからです。というわけでこの2冊は古本なのですが、購入してからしばらく放置されていたのは、本業が科学者であるセーガンは、これまで何冊もの科学エッセイや書籍を著しているものの、やはり小説という範疇外の仕事に過度の期待をするのは止しておくべきだろうと考えたから。つまりロバート・ゼメキス監督による大味な映画の印象がいくらかマイナス方向へ影響したことが原因でした(ただし物語内でいくつかのテーマが交錯するのはとても面白く感じました)。そしてこの度ようやく「順番」が巡ってきて読み始めたのですが、何とこちらの予想を見事覆して、本書はここ数年読んだ中でも5本の指に入るほどの大きな感動を与えてくれました。時に科学のセールスマンとも揶揄されることもあるカール・セーガンですが、彼が科学者として世界のあらゆる分野の知識と分け隔てなく接してきた体験の数々は、この作品に惜しみなく投入されています。そんな作品が読み応えのないはずはありません。普段、作中のエピソードの一つ二つには触れてみる僕ですが、ここは機会があれば全くの先入観なしで読んでもらいたいので、あえてノータッチで(映画版を観て「ふ〜ん、こんなものか」と早合点するのは避けましょう。映画版は小説の魅力の半分も引き出せていません)。

【fig.2】『フェルマーの最終定理』サイモン・シン著:青木薫訳/新潮社/2000年/397p/各¥2,300(税別)

 残念ながら数学のセンスは全くない僕ですが、ある時新聞の一面に載ったフェルマーの定理の証明にまつわる見出しを見かけた記憶は朧げに残っています。その時は「フェルマーの最終定理ってどんなだっけ?」というくらいに忘れ去ってしまっていた知識でしたけど。本書はその数学界の超難問を、1995年、若き数学者アンドリュー・ワイルズが如何に証明してみせたか、その軌跡を辿るドキュメンタリー。とは言っても、この本を読み進めるにあたって必要なのはせいぜい中学校で学ぶ程度の数学知識があれば大丈夫。いわば数学界におけるプロジェクトX的な構成になっていて、シンプルな問題を解くために、数学の長い歴史や、人の繋がり、それらの積み重ねが如何に重要であったかという部分に強く感動せずにはいられません。最終的に問題を証明してみせたのはワイルズではあるのですが、そのシンプルな定理の正しさを支えるためには、世界中の数学知識を繋ぎ合わせる必要があった。ワイルズだけではなく、一見関係のない分野で活躍した各人も、この物語の主人公であるわけです(日本人も登場します!)。歴史に埋もれ隠れていた物語に陽を当てたサイモン・シンの文章は読むだけで激しく気持ちを鼓舞してくれるので、割とページ数はあるものの最後まで一気でした。ところでこの本、出版当時から多くの人に影響を与えたようで、近年読書した全く違う分野の本にも本書に触れているものが多くありました。例えば小川洋子『博士の愛した数式』にキーワードとして登場する完全数28。その小説が本書に触発されているのは明らかです(個人的には物語よりなにより、それが文芸誌に載った年にタイガースが優勝してしまったことが凄かったケド)。後は保坂和志も少し触れてましたっけ。僕は本書を『コンタクト』を読み終えた後に読んだのですが、もしこちらを先に読んでいたら『コンタクト』はもっと面白くなっていたに違いありません。本書では数学の持つ「シンプルな美しさ」について、その魅力を強く訴えているのですが、それは『コンタクト』のラストにも通じるのです。数学ドキュメンタリーでこれほど感動できるのは珍しい。本書も文句なしにオススメです。

 ところでワイルズの証明は、構造は分かり易いものの、本書をガイドに読み進んでいって初めて理解できるものなのですが、果たしてこれほどまで複雑な証明方法をフェルマーが当時に思い付いていたとは信じ難い…と考えてしまうのは、何も僕だけでは無いようです。実は前回紹介したSF小説『過ぎ去りし日々の光(下)』の中で、ワイルズの証明についてこんな記述があります。
 「その解が発見されたのは実は1990年代になってからで、しかも、それは楕円幾何学その他のあまり知られていない抽象数学を含む技術的に複雑な解であった」
 だから、フェルマー自身はもっとシンプルな、これまで数多くの数学者が全く見落としていたような単純な方法でそれを証明していたのではないか?あるいは大芝居を打ったのでは?『過ぎ去りし〜』では過去への「覗き見」が可能になった後、ハイスクールの数学でしか武装していない、たった14歳の少女が、もっとシンプルな別の角度からそれを証明してみせます。…2037年の出来事です。

 とにもかくにも、ワイルズの証明と本書による解説は様々なところにまで影響を与えたのですが、僕は本文を読み終えて訳者あとがきを読んでいるときに全く別の衝撃を受けました。青木薫、実は前編に紹介した『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』の訳者でもあるのですが、その分野への確かで豊富な知識、重みのある文章からてっきり男性だと思い込んでいました。それは全くの勘違いだったのです。

【fig.3】『ポップ万国博覧会 公式ガイドブック』EXPOPーポップ万国博覧会ーサイト管理人/自費出版/2004年/293p/各¥1,000(税別)

 友人が運営しているサイトのコンテンツ内容を、彼が自費で本にまとめあげたもの。出版記念に頂きました。主にサブカルチャーを中心に、その周辺やその他諸々について書かれてあるのですが、実は僕、「サブカルチャー」なるものをちゃんと理解したのはごく最近のことなのです。著者はまだ小中学生の頃からサブカルのなんたるかを理解していたようなのですが、僕は言葉自体は目にしていたものの、まるで関心を持つことなく、サブカルなるものに接していたのだと思われます。つまりメインであろうがサブであろうが、自分にとって重要ならばそれはそのまま世界観を支えるメインカルチャーですよね。サブカルという言葉を意識した当初は、その発音から何かしらいかがわしいイメージを抱いたりしてしまったのですが、本書により初めて「サブカル=ポップ」でもある、という認識を得ることができました。今さらですが、これは大きな収穫でした。
 ところでデジタルデータのままでもコンテンツ配布可能な今、なぜあえて「本」というメディアにこだわったのか?本書の中でもそれに触れている箇所があるのですが、個人的にも本は非常に完成されたコンテナだと思っています。紙の持つ独特の質感も素晴らしいし、装丁やレイアウトの美しさも堪能できたり、もちろん機能的にも非常に合理的、しかも電気不要(これ重要)。その他にも色々なメリットがあります。これから本はある程度まで出版部数が減るのでしょうが、いずれ紙の代替物が発明されれば、これからも延命して作り続けられるに違いありません(本そのものを置き換えるガジェットとしては、Appleの提供する直感的なマルチタッチパネルの振る舞いは、一つの有力候補だと考えていますが…)。しかしながら、自費出版の新風舎が最近、民事再生手続きに入ったりで、なかなかエンドユーザーへのリーチが難しい、つまり営業を如何にこなすのかというのは、多くの自費出版作家にとって切実な問題です。

 さて最近、読書中は付箋を携帯していた方が良いということにようやく気付きました。今回の企画で一言を書き連ねるのに、それぞれポイントだと思っていたページ箇所を再び見つけるのにとても苦労したのです。しかしそんな苦労も楽しみのうち、本の魅力を損なう理由にはなりません。

【08/2/13更新】