放談ラジオ音響系

読後のつぶやき'08:1月分(1/2)

 少々クドイというか、ここまで続けると嫌味になってしまうかもと危惧しつつ、続けてしまいます。一言からつぶやきに変更です。



つぶやきは気楽なのです

 とりあえず去年後半の読書分は紹介し終えたので、気分を今年モードに切り替えるべく、企画タイトルを刷新しました。ズバリ「一言」から「つぶやき」へ。パッと見は大した変更ではありませんが、僕の中ではとても大きな、革新と言っても良いのではないかと思うくらいの方向修正(ウソです)。「一言」というと、確かに一言で済むくらいの短い文章でよいのですが、場合によっては「一言いわせてもらうぜ」みたいな態度と取られてしまいかねません。そこで「つぶやき」の登場。つぶやきであれば、ボソボソ独り言してればよいのです。誰に向けて発信するでもなく、ボソボソ、ボソボソ、ひたすらに、ボソボソ。あ〜、お気楽お気楽。

【fig.1】『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』保坂和志/草思社/2007年/212p/¥1,470

 一般に物語を論じる際、「起承転結がしっかりしている(オチがついている等)」ことを評価のポイントにしているのをよく見かけるのですが、もしその物語(小説でも映画でもマンガでもいいけど)の中に起承転結という部分的な役割を見出してしまったとしたら、その物語はその構造だけのものに要約・矮小化されてしまうような気がします。読後には、その骨組みだけが残る…というような。なので個人的には物語構成にはまるで関心が無いし、もちろんその骨組みを楽しむというのは、それはそれで物語の価値の一側面でもあるのですが、世の中にはストーリー構造が無くても楽しめるタイプのものがある、あるいは「楽しみ方がある」ということは知っておいてもよいと思います。例えば小説なら、主人公の日常を追っているだけで可笑しいとか、あれこれ取り留めもない事をぐだぐだ考えている文章を読んでいるだけで笑えるとか、映画ならセリフを全く追わなくても、カメラが捕えている画を眺めているだけで別世界に飛んで行けるとか…。そういう構造無きスタイルを積極的に小説へ持ち込んでいると言えるのが保坂和志なのですが、だから本書も帯のコピーに書いてあるように、考えている状態こそが面白い、という立ち位置で読めば、それぞれのエッセイがまったく結論を見出せずに終わったり、出発点からはまるで方向違いのところへ走り出したとしても十分にエンターテイメントになっているワケです。しかし「思考を辿る面白さ」を解せない人というのはよく居るもので、例えば読書と言えばハウツー本とか、○○で成功する方法、とかいうものしか読んだことが無いというタイプ。そういう人はつまり、ただ早く結論が欲しいだけなのです。コストをかけずに(ここではコスト=時間)得た結論は、実はその人を以前の状態から全く変化させることはありません。最近笑ったのは「ある程度頑張ってダメだったら、すぐ諦めて次へ行け」という訓示を、とある○○成功本で読んで感銘を受け、実践しようと息巻いていた人がいるのですが、しかしその人はそれで上手く行かなかったら、また別のその類の本を手に取ることになるのでしょう。実はそういう不毛な繰り返しを、その人は永遠に続けています。幾度か試みましたが、僕のアドバイスは理解不能のようです(でも見方を変えれば素朴、面白くてイイヤツですよ、とフォロー)。

【fig.2】『肝心の子供』磯崎憲一郎/河出書房新社/2007年/106p/¥1,050(税込)

 なぜ三世代なのか?これが本書を読んで改めて気付いた、世間に多く見られる物語構造(上述の起承転結とは別の意味で)についての疑問です。ちゃんと観た事がないからハッキリとしてないのですが、『スターウォーズ』も前後三世代くらいで叙事しているのではないでしょうか。数年前に観た映画『太陽の雫』も、主演のレイフ・ファインズがあるユダヤ人一族の辿った運命を一人三役で演じていましたが、やはり三世代。おっと忘れてた、そう言えば『ゴッド・ファーザー』もそうですよね。例えば自分があるファミリーについての物語を書こうと考えた時、自分の記憶に残っているとしたら、両親とその親くらい、それ以上の記憶があるとしても、せいぜいひい爺さん婆さん留まりでしょう。また自分を中心に子孫へベクトルを向けても、余程長生き、あるいは恋愛に早熟であった場合を除いて、孫くらいが普通です。もしかしたら、人があれこれ想像力を働かせても、やはりその密度に一定の濃さを維持できるのは三世代くらいなのではないか、というのが今回の発見です。少々こじつけてしまうと、それは血を受け継いでいく三世代の時間を借りて「起承結(あるいは起転結)」の構造に、物語を縛りつけているのかもしれません。

【08/2/16更新】