
エル・スール
アデライダ・ガルシア・モラレス【著】:野谷文昭【訳】:インスクリプト(2009年)
2006年にリバイバル上映されていた『エル・スール』(ビクトル・エリセ監督)をいつものように何の予備知識もなく鑑賞し、そのせいもあってか非常に大きな感銘を受けて劇場を出る事の出来た僕はこの原作を読むのを少し躊躇ったのですが、全編少女の回想によるモノローグで綴られる本書は少しも、映画を支えていた世界観を崩すような事はありませんでした。それよりもむしろ、映画と本書は互いに絶妙な状態で補完し合っているとも言え、たとえばここでは映画では省略されていた「南」にある何かが明らかにされたり、あるいはまた逆に、この原作を見事にアレンジし映像化したエリセの手腕を再発見できたりするのです。僕はまるで知らなかったのですが、原作者のアデライダは何と当時エリセの妻だったという、時期的に見ても映画と本書の成り立ちはいわば夫婦の共同作業、映画を愛している人は、この原作も同じように愛せるのではないかと。
それにしても、久しぶりに真っ当な、小説らしい小説を読んでまた感銘を受けたりしたのですが、いつか書くと言い続けて未だ手を付けていない映画『エル・スール』の感想文は、本格的な夏が来る前には取りかかろうと思っています。幸い、本書を読んだ事による映画感想文への影響は全くありません。映画を観た感想は当時観た時のまま、映画の世界観を作り出している「ルール」に対してのものになります。たぶん。

ゴド−を待ちながら
サミュエル・ベケット【著】:安堂信也・高橋康也【訳】:白水社(2009年)
最近、映画を観ていて何となく気になるようになったのが台詞なんですよねえ。極端な話、映画なんてスクリーン上で画が動いていさえすれば、たとえ無音であってもそこには何かしらの物語が出来てしまいますし、また、そこで動いているのは必ずしも人間でなくても大丈夫なわけで、例えば赤い風船と白い馬なんかを動作に合わせ交互に都合よくフィルムを切り張りすれば、あたかも彼等が会話しているように見せることも可能です。一般に人間が演技して物語を動かしていく場合、よほど実験色の強いもので無い限り、何かしら言葉のやりとりが行われて時間と空間を埋めていくのですが、ではそこで発話される台詞はどれくらい物語に影響を与えているものなんでしょうか。あるいは視点を少しずらして、映画の中で発話される言葉のうち、物語的に重要な言葉は全体の何%を占めているか、といった感じで調べてみたら、ちょっと面白い結果が出るかも知れません。個人的には、その割合が大きければ大きいほど、映画としては面白くなくなるのではないかと思ったりしています。
さて、ゴドーを待っている二人の男が共に過ごす二日間は一体、どのような台詞で埋められるのかとても気になるのですが、そのやり取りと言えば実のところ、それほど意表を突いたものでもありませんでした…ここで紙面を埋め尽くしているのは、いわば無意味を装った意味というか、ここで使われた会話の機能のさせ方は、僕が生まれてから見てきた様々なテレビドラマやバラエティ、あるいはアマチュアの演劇などに既に応用されまくっているじゃありませんか。もしかしてこれが元ネタなんでしょうか(本作の初演は1953年。意外に最近?)。
なぜ今、台詞なのか。たぶん僕が考えているのは「音」としてのセリフで、動く画の中でその音がどんなふうに響くのかっていうところに関心があるんだと思います。たまに平仮名をぼんやり眺めていると、その発音と形の関係が頭の中でほどけてしまう、いわゆるゲシュタルト崩壊が起きますが、演技中、セリフがやりとりされる中で音の響きが意味から分離していくとどうなるのか、ってことをよく考えてるんですよねえ。 じゃあ映画だったら、字幕ナシでスクリーンを眺めていればイイじゃんか、とも思ったりするけれど、何でそんな事を考えているのかは、自分でもよく分からないです。

寓話
小島信夫【著】:プロジェクトK(2006年)
台詞はもちろん、映画や演劇の中だけでなく小説にも。僕はおよそ小説内の会話は苦手で、それは会話の小説における在り方によるのですが、たとえば女性作家の小説における会話部分は退屈しがちですし、SF小説での会話もどんどん展開を進めて欲しいと思っている人間にとっては邪魔になる場合が多いです。台詞、会話、どういうわけかその在りようについて考えてしまう今日この頃。
さて、作者本人が作中に登場してくる小説は珍しくも無いのですが、序盤、その関わり方に少しばかり僕個人の嗜好の相性の悪さを感じてしまったものの、物語を推し進める原動力が読者からの手紙にするりと移り変わってから俄然面白くなります。送られてきた手紙の文面をそのまま掲載するという試みは、つまりその文面は手紙の書き手による一方的なモノローグではあるけれど、作者との非常に長い会話とも言えるわけで、そう考えると本作、延々と台詞で成り立っているとも(幾度も行われる電話のやりとりも同様)。
そこで上で書いたように、それらの台詞は一体どれだけ物語に影響を与えているのかと考えてみたところ、もしかしたらまるで物語に関与していないのではないか、というか、ここには物語らしい物語が始めから構想されていないわけで、ならばどんどん紙面を埋めていく文字は、それ自体が小説を先に先に延長させていくためだけに機能しているとも言えてしまうのですが、ではそんな小説退屈ではないかと言われれば、これがどういうわけかメチャクチャ面白かったりするのですから不思議です。その不思議な部分、つまり退屈してしまう会話と楽しくてぐいぐいと引き込まれる会話の違いはどこにあるのか、と考えながらどんどん加速度を増して読み進んでいったら、唐突に「3」オチで終わってしまいました。高校生の頃に読んだ、クラークの『宇宙のランデヴー』以来ですが、個人的に三角形は大好きなので、ステキな終わり方ではないかと。まわるフリフリのフリに「フリ」が3回出てくるのは、決して偶然では無いのです。あ、しかし断っておくと、この作品は決してその最後に向かって駆動しているわけではありません。この結末は別にそれで無くても何ら不都合を生じさせない類のものですのでご安心を。要は、本作全体を構成している何か、が面白いワケです。なんだそれは!
ちなみに極めて特殊な構成の本書を読むにあたり、先月読書分で紹介したレーモン・ルーセルの『アフリカの印象』の奇抜な作品構造であらかじめ免疫がついていたのと、ちょっと昔に読んだサイモン・シンの『暗号解読』が非常に役立ちました。
ヒトコトメモ
■最後に紹介した小島信夫『寓話』は、保坂和志氏の個人出版により製本化・販売されたものです(これまで永らく絶版だったようです)。入手方法はコチラから。
http://www.k-hosaka.com/sohsin/guwa.html
■いやあ〜、今月はとても充実して楽しめた読書内容でした。
