タイトルは何だったか忘れてしまったのだけれど、以前読んだ宮台真司の古い著作の中に都市には隠れ家的な空間が必要だ云々という提言があって、そこで妙に納得させられてしまったのは、確かにここ数十年の都市開発事業における「都市デザイン」的なものがあまりに画一的であることの弊害を自分自身、身体で感じ取っていたからだと思うのですが、同じ東京にありながら一度も訪れた事のない多摩ニュータウンの、その名称からひしひしと伝播される主に集合した建造物に対する「イメージ」が、まるでそのままの姿でスクリーンに現れた時は非常に驚きました。実は近所にある集合住宅とまったく同一の外観デザインの建物がそこにひしめいていたのです。約40年前、森を切り開いて造られたその「新しい街」には今、何が起っているのか。
と、威勢よく切り出してみたものの、何が起っているのか90分に満たない映画を見ただけでは正確な情報は得らるはずもないし、ここは感想文としておおらかなスタンスで書き進めようかと。つまり、漠然とした印象のつぶやきをダラダラと(というのも、考えをスマートにまとめきれていないのです…っていうか毎度のことですが)。
異様なほどこのドキュメンタリー映画に登場する人々の平均年齢は高く、記憶にあるかぎり若者と呼べる人が画面に現れたのはほんの数名です。予想された通り、60歳を過ぎた子供が80歳を過ぎた親を介護しているというような、いわゆる老老介護の現状も紹介され、それはもちろん街から若者の姿が消えて無くなっているという現状から当然の成り行きではあるのですが、そもそも何故に若者はこの空間から脱出してゆくのか。彼等にとって生まれ育ったその空間は「ふるさと」ではあるはずなのです。
そう書いてみて、しかし故郷とは必ずしもノスタルジーを喚起させるものでも無いのかもしれない…と。「ふるさと」が「故郷」として「機能」するかどうか、それが問題なのではないか。つまり故郷とは過去の想い出や温かな印象で成立するのではなく、きちんと機能するようデザインされているかどうか、によるのです。それがつまり居住空間としての建造物デザインに反映されているかどうか、ひいては都市空間設計デザインにも繋がることになると。もちろん、居住空間デザインが内包すべき家族の在り方も40年の歳月を経て明らかに変化しているに違いなく、つまりはかつて想定されていた家族の在り方が今も適用できるとは限らない、という、もはや自明の状況において考えるべきは家族の再定義、来るべき40年に向けての家族リ・デザインではないか。
個人的には現状の民法、血縁関係に縛られる家族構成など旧態然としていると思っていて、当事者同士で価値観さえ合えば、むしろステップ・ファミリーなんてストレスなく自然で大歓迎だとも思っているのですが(その点フランスってとても柔軟に対応出来ていて、出生率を回復させてますよねえ)、実はそういったユルさはかつて懐かしむべきものだったハズの故郷には機能として備わっていません(むしろガチガチに抵抗されるはず)。本作の中で注目したのは、住人のコメントにもあったように、一度ドアを閉めれば近所の他人に干渉されない空間のあることは確かに今の人間にとって心地よいものであることは間違いなく、しかしそのプライベートな空間を一歩出れば、そこそこのユルさでコミュニケート出来る場所は欲求されている、という認識から出来た「福祉亭」が、その地域全体の縦と横のユルい繋がりを生む溜まり場として徐々に機能しつつあるというところ。これを見て思うに、近所の商店街でも顕著な個人経営の店舗が次々と閉店し、そこへ全国展開しているようなチェーン店が出来たりしている状況が何となく寂しく感じられるのは、一人で来店した客と企業に雇われているスタッフとの間では共有しているものが少なく、会話が生まれにくいところにあるのかもしれません。
とにもかくにも、これまでの40年で得られた知識をそのまま繰り返せば元通りに戻せるなんて簡単に時間は流れておらず、社会は常に不可逆的変化の只中にあるのですから、これから先の40年は、それに適応するよう新規にデザインを起こしていかねばならないのです。必要とされるのはセーフティーネットのようにして澱みを溜めてしまうような場所、溜まり場や路地裏のような機能的には一見「余計なもの」をあえて柔らかくデザインしてそこに置くような知見、そもそも、今そこかしこにあふれている集合住宅の外観デザインは、固過ぎるのです。
ヒトコトメモ
■でもそう簡単な話では無いんですけどね。しかし40年後の日本社会がどうなっているかこの目で見てみたい気もします。たぶん生きてないでしょうけど。
