連載第18回
2008年8月11日
イラン男子トイレ事情

 社会的・文化的な男女の性差という話題を耳にすると、なぜか真っ先に思い出すのは、太田房江前大阪府知事の土俵にまつわる一件です。これまでの因習に従い土俵は女人禁制ということになっているのですが、そこへ知事として賞の贈呈の為に上がりたいと申し出て、さて日本相撲協会がどう判断するか大きく話題になりました。なるほどこれは面白いと思ったのですが、そこで知事が土俵に上がることが是なのか否なのか、もちろん男女間の差別をなくし、どちらにも平等な権利や機会を与えることには諸手を挙げて賛成だし、まずは社会面、たとえば選挙・参政とか、雇用の均等などから優先されるべきだと思い、実際日本ではそうなってきたのですが、ここで少しばかり考え込んでしまうのは、果たして女性知事の土俵入り問題が「社会的」な側面を持っているのか、それとも「文化的」なものなのかよく分からないというところ。もし知事であるという社会的立場から見るなら、それは女性であろうが男性であろうが土俵へ上ることは認められなければなりませんが、しかし相撲のしきたりという文化的側面で見ると、やはり女人禁制ということになるのでしょう(とりあえずここではそれを文化としておきます)。ところが、ここで注意しておきたいのは、女性知事の土俵入りが、必ずしも一般的な性差の是正を代表するのではないということ。例えば世間には女子大など、女性だけが通える空間があります。女子大が女性のみ通える空間としてあるのは、それが男性が受けている教育と同じレベルのものを女性も受けられるという意味において「同等」であり、決して差別しているわけではありません。女性が普通に通える大学として在る時点で、空間は共有せずともそれは既に男女均等なのです。いずれそのような場所は少子化問題によって、経営事情から男子受け入れを認めて行くことになるでしょうが、それは社会・文化的性差を埋めることを意味してはいないのです。
 話を戻して女性知事の土俵入りの件、ここで見落とされているものが一つ、それは社会的ポジションというファクターです。知事という立場は社会的に頂点にあり、そのハイポジションから文化的因習に立ち入って行くのは、個人的にどうもフェアに感じられにくい部分があります。たとえば僕のような小市民が土俵に上がれば、いくら男子と言えどたちまち引きずり降ろされ、控室に連れ込まれ軽く張り手を一発喰らい即、白ビル送りになるはず。こんなローポジションの男子でも気軽に土俵に上れる世界になれば、世間の要請によってその空間へ女性も参加しても良いのではないかと議論出来る状況になるでしょう(とは言え、僕は自分のような人間が気軽に土俵に上がれるような時代を切望しているわけではありません)。
 ざっくりとまとめれば、僕の中での性差均等化プライオリティは優先順に【1. 社会面ローポジ>2. 社会面ハイポジ>3. 文化面ローポジ>4. 文化面ハイポジ】となります。まずは身の丈の社会的問題から手を付けるべし、と考えているわけです。

 そこで、ハイポジと言える女性知事の土俵入りからグッと目線を下げて、優先すべきローポジの性差問題を考えると、ここで僕が真っ先に思い付くのは実は「トイレ」だったりします。

 文化的イベントが行われるシーンにおいて、必ず出来ると言える女子トイレ前の長蛇の列。その列の長さは、催されているイベントの文化レベルの高低に関係なく(つまり映画館であろうが花火大会であろうが、相撲場所やオペラやバレエの劇場であろうが)、常に長く、それはイベントへの女子の参加を妨げる大きな要因になっているのではあるまいか。そのような不利益は直ちに是正せねばなりません。ところがこのトイレ問題、果たして社会的問題なのか文化的問題なのか、良く分からなかったりします。機会の平等を損なうという見方をすれば社会的だし、男女の身体的差異から見れば文化的とも言えるような…。まずは先のプライオリティに従って、社会的ローポジな問題とすれば、手っ取り早く男女関係なく皆が一緒に使えるトイレを、少なくとも状況に応じて男子トイレも女子が使えるように制度を設ける、ということになるのでしょうが、やはりそれは躊躇われます。その理由として個人的に筆頭に挙げたいのは男子トイレ特有の「落書き文化」。…あの落書きは、ちょっと女子には見せられない、独特なレベルの低さがある。それを具体的にここで書き記すワケには行かないのですが、ふと気が付けば僕は女子トイレ特有の文化を全く知りません。もしトイレが共用されるとすれば、僕等男子も女子トイレ文化を受け入れる心構えをしておかねばなりません。ここで参考になるリンクをばご紹介。

デイリーポータルZ「東京女子トイレマップ」

 大爆笑しました。これは男子トイレの落書きとは全く異なる「繋がり系」というか、やはり女子特有の文化がトイレの落書きにも反映されているようです。女の子はトイレに落書きなんてしないっ!って思ってた貴方、どうも現実は違うらしいですよ。とすれば、トイレという空間は明確に文化的空間と言えることが出来、必然、文化面ローポジというセグメントに仕分けられることとなって男女均等化の優先度は低くなります。どうやらトイレで男女が同じ土俵に立つことは先送りになりました。

 さて、本作では男性のスポーツを女性が観戦することが禁じられている状況の中で、どうしてもリアルに行われている試合(しかもワールドカップ!)を自分の目で見てみたいと切望する女子が男装しスタジアム侵入を試みるものの、目前で警備の兵士に捕捉され留置されてしまいます。留置されている時間が長くなれば、男女関係なくトイレに行きたくもなるのですが、無論、男性専用に作られたスタジアムですから女子トイレがありません。しかしながら、カメラは物語の要請によって男子トイレに侵入することに、そこで僕が俄然注目するのはもちろん「イラン男子トイレの落書き文化」です。意外にも予想よりは綺麗な男子トイレであったことに驚きましたが、当然、カメラは役者の背を中心に据えて追いかけます。しかし、僕が注視するのは綺麗とは言えど文化を越えて必ず存在する壁やドアに書きなぐられた落書き達。そして、遂に求めていたものが現れた瞬間を見逃しませんでした。

METALLICA

 このスペルをイランの男子トイレで見つけた瞬間、もしかしたら、世界を動かす何かは、やはり社会的・文化的ローポジ空間であるトイレから始まるかもしれない、そう思ったのです。

ひと言メモ

監督:ジャファル・パナヒ(2006年/イラン/92分)ー鑑賞日:2008/01/05ー

■詳しく知らないのですが、江戸時代、女性は相撲の試合を見ることすら禁じられていたと聞きました。
■数年前までは頻繁に中東発の映画が上映されていたのですが、あれは一過性のもの(ブーム?)だったのでしょうか。最近は上映本数がめっきり少なくなったのではないかと思います。
■そう言えば電車の運転席に、普通に女性運転士が座っている風景が当たり前になったのは、ここ数年のことですね。
■イランの音楽市場マーケットでは、米国のポピュラーミュージックってどれくらい流通しているんでしょう?普通にOKなのか(疑わしい)、それとも闇市なのか、あるいは他国からの電波経由なのか。
■とは言うものの、個人的にはトイレで落書きする気持ちが全く理解できないのですが…。