連載第22回
2008年8月31日
野次馬どもを見よ

 数年前のこと、地下1階にある駅の改札を出て地上に出る階段に向かって歩いて行くと、黒いコートを羽織ったサラリーマンとおぼしき一人の中年男性がふらふらと千鳥足で階段に足をかけたところが目に入りました。なんとなく注視していると、その男性は3段ほど登ったところで突然バランスを崩し、あろうことかそのまま仰向けに倒れ込んだのです。仰向けとは言え真後ろではなく、進行方向とは若干斜めに傾いていたので、階段の側壁へ後頭部から突っ込み、そのままダラりと手足を伸ばしきって天井を向いたまま動かなくなりました。週末の昼下がり、周囲には人もまばらで自分が一番その男性に近い場所にいたこともあり、とりあえず駆け寄って顔を覗き込むと、何やらうめき声のようなものを発しつつ、同時に大きないびきをかいている(もしや脳梗塞の類?)。そして後頭部から破損した壁のタイルまで、太い筆で書いたような血の筋が伝わっていました。そこでまずは声を掛けてみたけれど、いびきをするだけで反応が無い。タイルが割れるくらい頭をぶつけて血を吹いておきながら、いびきをかいているなんて、かなり重症かもしれないと思いつつ、ふと振り返ると、そこには男女合わせて5~6人の通行人が弧を描き、数歩の距離をおいて僕等を凝視している姿がありました。状況は切迫していると思い、彼等に向かって「すみません、誰か携帯電話で救急車を呼んでもらえますか」と頼んでみたのですが(そう、僕はケータイ持ってないもんね)、視線はそのままで誰も無言で無反応…。あらら…と心の中でズッコケていると、その中にいた学生らしき男子が「駅員さん呼べばいいんじゃないですかね」とポツリ。なるほど、その手があったかと流血している男性を横にし、いまくぐってきた改札を逆戻りして駅員室へ向かって走りながら、なんで自分が走っているんだろう…など考えつつ線路を隔てた反対側の階段を駆け上がり目的の場所に辿り着くと、駅員さんに向かって通行人が駅構内通路で倒れたので救急車を呼んで欲しいと伝えたのでした。そしてその駅員さん一人と共に倒れた男性の元へ駆け戻り、再び声をかけてみると細く目を開いて「うぃ~、起こせバカ野郎~」とか言っている。コイツ、ただの酔っ払いだったのかと思ったけれど、頭からダラダラと流血している状態は変わらず、それまでの経緯を簡単に説明し、駅員さんが無線で救急車の手配を依頼したところで自分の役目は終わったと判断しました。このドタバタの最中に様子を眺めていた観衆等は一人去り、二人去り、そして最後の一人である若い女性がポツリと立ったまま、未だ倒れた男性の方を凝視していたので、もう大丈夫だから帰っていいですよ、と声をかけたのだけれど、その女性は僕の声にはほとんど反応しないまま、カッと見開いた目をトラブルの起っているところから逸らすことはしませんでした。僕はしばし彼女の表情を注視したのですが、目の前で起きているイベントに釘付けになったまま、何かに取り憑かれたようにフリーズしている様子から、今はこれ以上何を言っても無駄だろうと思いその場から離脱しました。そのトラブルの一部始終で今でも僕の印象に一番強く残っているのは、倒れた男性でもなく、白い壁を伝う真っ赤な血の跡でもなく、目の前で起きているイベントを凝視する、女性の見開かれた両の目です。

 本作の冒頭に流れる重厚で悲愴感漂う音楽を聴いた瞬間、このブラジルはリオデジャネイロで2000年に起きたバスジャック事件を題材にしたドキュメンタリー映画がこれから辿るのであろう道程と、そこで物語られるものがおよそ察知されました。結論までにはおそらく、事件が起きた背景にはブラジルを覆う極めて深刻な貧困、そして末端には行き届かない教育(更生)制度などの慢性的社会問題がある、というように展開されるであろうと。そう予感された途端、正直に言えば、主に事件を実況中継したテレビ映像を再編集し、そこに若干のオリジナルなレポート映像を交えて作り上げられた本作への関心はほとんど失われてしまいました。
 しかし、そんな距離を置いた状態で事件の様子を捕えた映像を眺めていると、主題とは別のものが見えてきたのです。

 バスジャック事件と聞いて連想するのは、奇しくも同じ2000年に日本で起きた佐賀バスジャック事件なのですが、当時これは機動隊によるバス突入映像がテレビで放送されたのを、リアルタイムではなくアルバイトから帰宅後のTVニュースでの編集映像だったけれど僕も見ています。同じような事件ではあるものの、両者の映像が伝える情報の中には明らかな差異がありました。それはいわば熱さ、のようなもの。日本でのそれはいわばクールであり(早朝なので映像は全体に青みがかかっていたのも要因)、ブラジルのそれは熱気に溢れているのです。その違いをもたらしているのは、野次馬たちの存在です。佐賀バスジャック事件の場合、高速道路上という地理的条件もあるのですが、警察当局による統制が一般や報道陣に対してきちんとなされていた印象を受けます。バス突入時の映像は早朝という時間帯を考慮しても、バスはただそこにポツンとあった…という感じです。対して本作で流れるバス周辺の映像には、まるで日本では考えられないような野次馬どもの群れが、場を劇場化しているのです。これは明らかに現地警察署員の質的レベルが問われる状況。いよいよ現場の緊張が限界に達し、ついに1発の銃声によって状況は瞬時にカオスへ、彼等野次馬どもが叫びながら散り散りに方々へ拡散していく様は、どこかラテンな感じがして笑えるものがありました。
 結果、日本では犠牲者は出たもののテクニカルに犯人の身柄は拘束されましたが、ブラジルでは人質一人が死亡(犯人に背中を3発、そして酷いことに犯人を狙った狙撃手の流れ弾を顔面に1発)、この混乱の中、犯人はようやく拘束されるも、驚くべきことに警察署へ連行される途中、パトカーの中で警官等により絞殺されるのです。

 さてそれでは、かのような事件が起きたのは、本作が語るように貧困や(警官も交えた)社会の質的レベルの低さが起因しているのかと言えば(原因の一つとは思われるけれど)、それは甚だ疑問です。何故なら、格差社会が進行中とはいえ明らかに現地よりは平均的生活レベルの高い日本でも現実に「事件は起きている」からです。社会的背景の違いに関係なく同じような事件が起きる。では原因を犯人個人の資質や狭い範囲での生活環境などに求めようとするのも的が外れているような気がします。何故なら、明らかにそれぞれの犯人二人は違う人生を歩んだ人間だからです。
 ならば全ての人間の中に潜在しているものの変異が起因しているのではないか、もしかしたらその変異の先に「認知の希求」があるのかもしれないと考えました。別に政治思想的確信犯でもない彼等が、犯行当時リアルタイムに他者からの認知を欲していたとしたら、事件はイベントを視覚的に追跡したいと欲求する我ら野次馬どもとの共犯とも言える。かくして状況はいやがうえにも盛り上がるのです。ブラジルでは現場で、日本ではネットで。

ひと言メモ

監督:ジョゼ・パジーリャ(2002年/ブラジル/119分)ー鑑賞日:2005/11/19ー

■もう一つ、通勤電車内で起きた急病人と野次馬にまつわるアレコレで書きたい実例があったのですが、無駄に長くなるので割愛しました。
■音楽はですね、やはり個人的には要らないと思うんですよね。テーマや映像がしっかりしていれば。特にストーリー展開を誘導する音楽は、よほど良い楽曲でないとウルサイだけという気がします。