連載第25回
2009年1月11日
レンズの向こう側

 まだ中学生の頃だったか、友人と当時話題になっていた『機動戦士ガンダム』の映画を片田舎からゴトゴト電車に揺られ、うらぶれた繁華街にある映画館まで観にでかけたのですが、それまでの期待に反し鑑賞中に多少違和感を覚えました。そこで生じた疑問とは、果たしてこれは「映画」なのかということ。どのような条件を満たせば、それが映画と成り得るのかはまるで知らないのですが、そこでスクリーンに流れた映像はつまり、それまで幾度となく再放送されたテレビアニメを編集しただけのもの、テレビ映像を映画館でスクリーンに映写すれば即映画となるのかと言えば、僕としてはやはり否定したくなる気もしますし、そもそも中学生にしてみれば決して安くはない入場料を払ったのですから、子供にも納得出来るようなものを提供して欲しいと思ったのです。まず先立ってテレビ放映されたこのアニメ作品は、その物語のほとんどを「繋ぎ合わせる」ことによって三部作という劇場公開の構成を取ったのですが、ではわざわざ劇場で観ることの価値はどこにあるのか、結末の知れた物語展開を、テレビのそれと変わることのない、粗末な映像で見せられても満足は出来ないと、結局第一部を観たのが最後、その後に続いた二部・三部作を観に劇場へ足を運ぶことはありませんでした。いわばこのテレビ再編集企画に多少の価値を見出すとすれば、それは劇場用に新たに描き起こされた安彦良和氏による原画担当部分、つまり「画」を見せることが映画であることの条件の一つとすれば、氏によって描き起こされた箇所は唯一鑑賞に堪えられる部分であったのではないかと思います。それでも三部作全体で新規に追加された映像は30分あったかどうか…それもさほど重要でもない場面での追加となるともはや…。映画版ではなく、劇場版と銘打っていたのはうまい言い逃れです。

 直前まで、まるで真実と信じて疑わないようなリアリティを持った夢を見ていたにも関わらず、目覚めた途端、すっとその記憶は消えていき詳細を思い出せなくなってしまう。そんな事をよく経験します。もう何年も昔のある朝にふと感じたのですが、目覚めて瞼を開いた瞬間、視覚に飛び込んでくる何気ない風景の持つ情報量は夢の比ではなく圧倒的であり、それを処理するために脳が持つ能力が総動員される、その結果、つい先まで見ていた夢のことなどあっという間に忘却されてしまうのではないか。最初に飛び込んできた映像が、見慣れた天井であれ、枕であれ、あるいは長年連れ添った恋人の無防備な寝顔であれ、ほとんどそれらは運動しないにも関わらず自分を取り巻いている世界の持つ情報量はとてつもなく膨大で(もちろん視覚だけではなくて、匂いや気温や音響なども含め)、戯れに見ていた夢の解釈など途端に置き去りにされてしまうのです。

 閑話休題。映画は画の連続体ではあるけれど、そこから何かが立ち上がってくるには果たして素材となる一枚一枚の画がそれに合う情報を持っているべきなのか、それとも連続することによって生じる運動こそが意味を生じさせるのかはまだ詳しく分かりませんが、少なくとも従来のアニメにおける一枚のセル画が持つ情報量は、実写フィルムの持つそれとは比較にならないほど貧しいものです。だからこそアニメはまず画そのものよりも「運動すること」が優先されたのですが、そこそこに複雑な物語が導入されるようになった昨今、一枚の画が持つべき情報量の密度への期待は以前にも増して高まっています。その必要性が最も分かり易く生じるのは、絶えず運動している映画において、その主体が静止する場面、アニメにおいてそれは致命的です。主人公がほとんど身動きしていなくとも、実写の場合はスクリーンを観る人間が無意識のうちに感じ取っている「揺れ」や「空気感」が持続していますが、アニメの場合まったく動かない画はただ貧相のみならずリアリティを欠き、世界観が崩れる(観る側の気分が離れてしまう)要因にもなりかねません。とは言え、静止した画も前後にある連続体を考えれば運動バリエーションの重要な要素の一つ、その状況で観る人をそのまま作品世界に繋ぎ止めておくことを実現するための表現方法の一つとして、CGは大きな可能性を持っています。

 僕がピクサーの作品をずっと追いかけるようになるきっかけを作ったのは、他でもない記念すべき長編第一作『トイ・ストーリー』です。それまでCG作品と言えば多様な映像表現を実現するために研究開発した演算方法を発表する場でしかなかったものへ、娯楽映画のセオリーを詰め込み、大胆にも世界に配給するという試みを見事成功させたのは痛快でもありました。そこで重要だったのは全編CGという話題性以上に、物語展開の面白さにあったのは疑いの無いところです。しかしそこに意識的である人には明らかなように、物語は決して「情報」そのものではありません。いわば言語化され分かり易く説明された輪郭のようなものであり、すぐれた映像表現から得られる「何か」とは、そこで明示されている輪郭の外側(あるいは内側)にあるのです。
 本作『カーズ』においても骨格を成すのは明快な物語構成にあるのですが、ではその物語自体が目新しいものであるかと言われれば否定せざるを得ません。それはもしかしたらポール繋がりで『ハスラー2』なども同様の物語構造を持っているかも知れず(未見なのであくまで想像のお話)、全ての表現は模倣であるとしても在り来たりなのですが、ライトニング・マックイーンがあそこで止まってみせたのは在り来たりな物語の要請ではあれど、それまで脇目も振らず猛スピードで運動し続けていたものが確信を持って「静止する」という、アニメでは禁忌とされている状態への「挑戦」でもあるのです。
 果たしてその挑戦が報われたのかどうか。個人的にはまだまだ映像表現としての「研究開発」の余地があるとは思うのですが、少なくともその瞬間、その場面の「画」がある程度のリアリティや空気感を伴い、作品世界に観る人の気分を繋ぎ留めておくことが出来ていたとしたら、ひとまずは到達すべきクオリティへの階段を一つ登っていると言えるのではないでしょうか。

 余談ですが本作の感想文がこのような展開になってしまった理由をば。本編上映後、エンドロールが流れ終わった後に、一匹のハエ(これもクルマだとは、驚くべき感覚ではないでしょうか)が透明な物体にぶつかります。その物体の正体は紛れもなく「レンズ」、つまりその仮想カメラのレンズ越しに見た風景を繋ぎ合わせて完成したのはアニメではなく、「映画」かもしれないと思った次第。少なくともピクサーのスタッフは常に、「映画」を創る意気込みで挑戦しているはずです。

ひと言メモ

監督:ジョン・ラセター(2006年/アメリカ/122分)ー鑑賞日:2006/07/01ー

■というわけで最後の最後、ハエがレンズにぶつかるところで非常に感銘を受けたのですが、それを感想文にするのに2年以上かかってしまいました。まあ、これからもこんな感じでお気楽に。
■まず本作を劇場で観た時の衝撃は、ケタ違いにクオリティアップしたレンダリングの質感でした。その風景の中でクルマが違和感なく曲線を描くことの驚異!
■あ、そう言えばトイ・ストーリーのエンドロール中にあるNG集にも疑似カメラにぶつかる場面がありますね。