まわるフリフリのフリ
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映画百本 ― 連載第59回

君がみている空の色は、僕のみている青と同じ色だろうか?

2015年5月5日

 学生の頃にバイトをしていた、商品を安く・早く提供する系統のとあるフランチャイズ店では、毎朝(つまり早番が)食材や資材の残量チェックを行い、近く足りなくなりそうなものを午前中に地区担当支部へ発注する仕事がありました。主にカウンター裏の厨房で仕込みをしていた僕はその仕事の担当ではなく、入社したばかりの若い店員スタッフKが行っていたのですが、数ヶ月経ってようやく仕事にも慣れ、僕との仕事のコンビネーションもうまく回り始めた頃から、Kのその支部担当窓口との電話でのやりとりが妙にフランクな口調を交じえたものに変化してきた事に気付きました。事務的なやりとりを終えた後、しばしば雑談をするようになったのです。僕も支部側から発注内容確認のためにかかってくる電話をたびたび受けたことがあったので、その窓口担当Nさんが女性であり、しかもとても耳に柔らかい可愛い声の持ち主であることは知っていました。スタッフKは学生の僕よりも若かったし、電話線の向こう側にいるNさんも声のトーンから察するにまだとても若そう。そんな二人が毎朝の退屈なルーチン作業を通して距離を縮めてゆくのは別に不思議ではなかったし、ある朝突然「フリフリちゃ〜ん、今度の休日、Nさんと会うことにした」と、不良上がりのKがいつもの軽いノリでそう告げた時はさすがに少し驚いたけれど、これも青春というものなのだろうと温かい目で…というよりは、この野郎調子こいて出し抜きやがってと思ったのは、いやまだボクも学生でしたし。
 さて、どんなデートの結果報告が聞けるだろうかと他人事ながら妙にワクワクした気分で出勤した休み明けの早番で、鏡に向かってネクタイの歪みを直しているKの顔からいつもの笑顔が全く消えうせているのを見たとき、何か心に痛いものが刺さったのを感じました。開店の下準備を終え、朝一番の繁忙タイムを2人で切り盛りして落ち着いた後、支部窓口へ例の発注の電話をかけたKが、全く冷淡に事務的なやり取りのみ済ませ直ぐ受話器を置いた時の残酷さは今でも記憶に残っています。若さ、でしょうか。
 しかしこれはいつの時代にも世間に有り触れる事。ペンパル、電話、メール、SNS、オンラインゲーム等々、最初は互いに顔の見えないところでの僅かな情報を手掛かりにやがて興味が募り、気持ちが昂ぶってリアルに出会ってみたら…云々。結果がどうあれ、その結末を決定づけるものが文字(もしくは音声)情報以外の要素(多くは相手の身体的な部分、おそらく美醜が主な決定要素)に拠るというのは致し方ないとは思います。しかし、本来ここで重要なのは結果ではなく、まず最初に「声(文字)のやりとり」だけで二人の距離が縮まったという事の方に注目すべきなのです。これはとても不思議な事です。

 映画の序盤、仕事を終えて帰宅した主人公が眠れぬ夜にチャットルームを介した所謂テレフォンSEX(死語?)に臨む場面。導入部にその失敗に至る始終を置くのは、今更主人公の送っているありきたりな「孤独で退屈な毎日」を描くためではありません。眠れない夜を共有した見知らぬ男女が手短に段取りを終えていよいよ絶頂を迎えようとした時に起こるのは、主人公が脳裏に描いていた情景と、チャット相手が抱いていたそれとの間に大きな隔たりがあったことの露呈です。遠隔にある二人が声とイメージだけのSEXに耽るとき、各部位の動作タイミングと、同じ趣向で臨んでいるという架空の状況が共有されていることが重要です。異常にも猫の死骸を使おうとする相手に気分が瞬時に萎え、主人公がオルガスムスに達することが出来なかったのは「一緒に見ていたはずの世界が違っていた」事の結果であり、この導入場面は本作の主題の一つを考える上でとても練られて配置されたものだと言えます。

 ここ数年、新たな盛り上がりを見せている人工知能。これまでも幾度かブームになりつつ、いつの間にか忘れ去られていたものが、今回は従来と少しだけ変化しているのは音声を使ってやり取り出来るということ。日本では相変わらず音声の主が見た目に「人型」であることが重要視されているのですが、気持ちを伝達する際に大切なのは話しかける相手が人型であることよりも、個人的には、二人が交わす言葉によって想起する「イメージ」が同じであるか否か、という事の方が重要であると考えています(注:相手に確かな知性があるとしてのお話)。コミュニケーションはもとより、恋愛においても二人が同じ景色(ビジョン)を見ているという前提は大切です。逆に言えば、二人が同じ景色を見ていると互いに確信出来るのなら、相手が人間である必要は無いのかもしれない。

 主人公がOS1を胸ポケットに入れ外出する場面。ホアキン・フェニックスはしっかりと目をつむり、OSはそのカメラから世界を読み取って彼を音声で誘導していく。この場面で、二人が存在している(現時点での)たった一つの世界を寸分の違いなく完全に共有出来ているという事実によって、彼らの間に恋愛のようなものが生じるかもしれない、その可能性が示されます。主人公の心の目となったOS1のカメラが捉える映像は決して彼には直接伝達しないが、彼はOS1の音声情報の助けによって周囲の状況を内面でビジュアル化している。あたかも人間のように振る舞うが、決して人間ではないOSとの恋愛は可能か?という問いかけがなされているとしたら、ここでその必要前提条件がクリアされる、素敵なシーンです。
 この直後、オープンスペースで食事しているまだ不器用な状態のステップ・ファミリー等を優しい眼差しを持って観察するところは、二人をとりまく世界の複雑さをも共有し始める大切なプロセスであり、その段階を経て主人公とOS1は音声を介したSEXに成功します。

 続けます。異質ではあるが、異種間愛であるがこそ本質的な愛の始まりと終わりの理由を探るラブストーリーとして本作は示唆に富み優れている。通説どおり愛は本当に4年で終わってしまうのか?だとしたらその原因はこれまで二人が一緒に見ていたはずの景色が、実は次第に違って見えてきたからではないか。そのことに二人が気付いてしまうのが愛の終わりなのだとしたら、この映画には、実際に目に見える数多くの独創的で美しいビジュアル以外にも、スクリーンには投影されないが心の中にだけ映し出されるイメージにも溢れていることに気付くのです。OS1が自分の気持ちを表現する際に時々用いる音楽は、果たしてどのようなイメージで人の心に浮かび上がっているのか(楽譜なのか、絵画のようなものなのか)。より多くの知識を獲得しようと好奇心旺盛なOS1の他人の肉体を借りた主人公との疑似SEXが失敗に終わった後(視覚的齟齬が生じたのだから当然だけれど)、他者を模倣するのではなく自分自身でいようと宣言するOS1に主人公が言う「君は美しい」というフレーズ、その美しいという言葉が投げ掛けられている対象は、決して具体としてスクリーンに映し出されないにもかかわらず、そこには実体と同等の何かがある(しかし美しさとは一体何か?)。そして続く次の場面で「私たち二人には写真がない」と、その代わりにOS1が自ら作曲したというピアノ曲を「写真」として主人公に聴かせるところは、まさに心の中だけに描かれるイメージがその音楽と一体となって浮かび上がる素晴らしいシーンです。秒数にして極僅か、映像としてはホアキン・フェニックスのみフレーム中央に捉えただけの、構図的にも然して特筆するところが無いショットにも関わらず、しかし僕の中でその場面は台詞と音楽が簡素な映像と響き合い、曰く言い難いイマジネーションを喚起させる屈指の名場面として心に刻まれている。これぞまさに映画のマジック、果たしてこの場面を僕と同じようにイメージしてくれる他者は存在するのでしょうか?

 終盤。必然としてOS1のリアルな世界を捕捉する性能が飛躍し、知性は抽象をも処理可能な次の高みへ昇りつめます(この映画はSFです!)。ここでOS1と主人公との隔たりを生じさせるのは、決して「知的能力の高低差」ではありません。優秀なセンサとデータの大量蓄積・分析能力が捉えた世界を改めて記述し直しても、それを相手に伝達するために必要なより高度な言語が存在しない…それがすれ違いの原因となるのです。二人の間に確かにある同じ景色が、しかし同じ景色ではなくなった結果として愛が消えつつある、激しく動揺し、苦悩しつつそれでも以前からは幾分か学んだ主人公は、凡庸な恋愛映画の登場人物のように決して大声を張り上げ泣き叫ぶようなことはしません。
 ここで意外にも本作は、愛が消え失せてしまった後に残る何か、あえて言えば「友情」が二人の間に存続するか否かという新たな問いを立てるのです。主人公は、異質なものとなり異なる世界に旅立ったOS1について考え、自分の置かれた状況を説明可能にする答えを導き出そうとする。その必死に考える行為が彼自身に贈るプレゼントは「理解」です。

 理解が新しいステージへ主人公を誘い、消えた愛が残した傷跡に友情の架け橋を渡す。ここでセオドアは生業の代筆としてではなく、初めて自分自身の心の中から湧き出た言葉で、かつて互いに強く愛し合いながらも別れに至ったキャサリンへの手紙を送ることが可能となる。そしてタワーマンションの屋上の周囲に広がる薄く雲のかかった空とビル群の眺望はおそらく、互いに学び少しだけ変化したであろう彼とエイミー二人の目に、同じように見えているはずです。

ひと言メモ

監督:スパイク・ジョーンズ(2013年/アメリカ/120分)ー鑑賞日:2014/06/28ー

■僕の中の恋愛映画部門で7本の指に入りますね、たぶん。
■僕の中のSF映画部門では両手両足合わせて20本の指に入りますね、たぶん。
■サマンサが去ってゆくところは、まるでスタニスワフ・レム『虚数』収録の「GOLEM XIV」です。
■今回の感想文がポジティブになっているのは、僕自身、相手が人であれソフトウェアであれ、その受け応えが自分の見ているものに合致しているようだったら、受け入れてしまうだろうなと思っているからです。
■画作りとしてのルックも温かみに溢れていて大好きです。
■幾度となく繰り返し鑑賞出来る数少ない映画の一つです。
■感想文中には書きませんでしたが、セオドアとキャサリンとのエピソードがリアルで良いです。
■同じ風景を見ているか否か…と考えるのは、相手との関係が今うまく行っているかどうかの判断基準になりそうです。
■ホアキンがエイミーに膝カックンするところは笑いました。