連載第5回
2012年3月11日
父を送る言葉…の、ようなもの(お別れ会挨拶全文)

本日は寒い中、父のお別れ会にご参列していただき、誠に有り難うございます。
この度は通常の葬儀の形式をとらず、
故人の希望により家族および近親者のみによる、
ささやかなお別れ会とさせていただきました。
晩年の父が口癖のように「いいかぁ〜、俺の葬式の時はよぉ〜」
とよく私たちに話していましたから、
父の意向に従おうと考えた次第です。

3月○日、父は享年○○歳の生涯を閉じました。

先月の初め頃、体調を悪くした父が再び入院しました。
担当医による検査により、末期のガンであることが判明し、
そのことは父へも直接、先生の方から説明がありました。
様々な対症療法を勧める先生に対し、父は頑なに治療の拒否を表明しました。
無駄に延命措置を取ることは父の流儀に反したのだと思います。
しばらく入院生活を送っていたものの、やがて家に帰ると主張し、
担当先生も本人の意思に従うしかないと父は退院することになりました。
入退院を繰り返した重病の父が、設備の整った病院でもアレコレと我儘を言い、
時に担当の先生を困らせながら終の住み処となった我が家に戻ってきたのは、
やはり居心地の良い空間がそこにあったからなのではないかと思います。
退院した際は「寿司が食いたい」と言い、美味しそうにお寿司を食べました。
病院で最後を迎えることの多い病気であったにもかかわらず、
住み慣れた家、自分の匂いが染みついた部屋で
静かに眠るように息を引き取ったというのは、
とても幸せなことだったのだと思います。
中村仁一というお医者さんの書いた本の中にこうありました。
「天寿を全うする老人の役目は、自分の死を人に見せること」
実は医療の発達した現代では、
なかなかその瞬間に親しい人々が居合わせることが出来ないそうです。
このような病で入院していると、
お医者さんが看とることになってしまう場合も少なくないと聞きます。
普段、死から遠ざかっている私たちは、極端にそれを恐れているとも言えます。
その点でも父は、
苦しまず眠るように逝くことも出来るのだ
というところを実践して見せることにより
私たち残された者の不安や恐れを消し去ってくれたのだと思います。

ここからは少し、私の個人的な父の思い出話をしたいと思います。
何分男同士ですので、
私が中学校に上がってからはお互い何となく距離を取っていましたし、
それほど語り合った記憶もないのですが
何でこんな事を覚えているのだろう…という場面が時折思い出されるのです。

大阪万博が開催されていた時のことです。
まだ幼かった私も、父と母に連れられて万博へ出かけました。
当時の状況は多くの資料にまとめられ、
今はネットや書籍などで簡単に参照することが出来るのですが、
実はそこで時代の先端や粋を集めた各国パビリオンの展示内容は
全く記憶に残っておらず、
唯一残っているのがジェットコースターにまつわる一件なのです。
しかもジェットコースターに乗って大声で絶叫したという記憶ではありません。
「生まれて初めてジェットコースターというものに乗れる!」
と、ワクワクしていた当時の私は、まだ背が低く、
残念ながら搭乗可能な基準を満たしていませんでした。
入口のところでスタッフに私の背の低さを理由に入場を断られたとき
自分自身が乗れないことの悲しさより、
父と母の残念がっている姿を見て、
とてもとても「申し訳ない…」と思った記憶が、
どういうわけか鮮明に残っています。

さて、たぶん私が小学生1~2年生頃だったと思います。
父が「これ面白いぞ」と勧めてきた本がありました。
それは、ちばてつやの描いた『おれは鉄兵』というマンガでした。
その頃まで私はまだマンガ週刊誌や単行本を読んだことがなく、
マンガ本を勧めてくる父を親としてどうかとも思ったのですが、
まるで関心のなかった「剣道」を題材にした
スポーツ根性モノだったにもかかわらず
ただのマンガ本と侮ることなかれ、
今振り返るといろいろな事をそのマンガから学んだ気がします。
例えば、記憶にまだ新しい、2年前にチリで起きた鉱山落盤事故。
地下深く閉じこめられた33人の男達に、いよいよ救いの手が差し伸べられ、
地上に出る手はずが整ったとニュースで聞いたとき
瞬時に私は「まず彼らにサングラスを与えないと」と思いました。
実はこの『おれは鉄兵』という長い物語の終盤、
高校を退学になった主人公と仲間たちは
山奥の洞窟へ宝探しに出かけ、途中落盤事故に遭います。
そこから何とか脱出するため知恵を絞り、互いに協力し、
全員で落石を砕いて道をつくり、
いよいよ地表に出られるというとき
「目をつぶれ、暗闇に慣れた目で太陽の光をみると目がやられるぞ」
というのです。
それがどういうわけか記憶に強く残っており、
チリの事故と結びつきました。
実際、現場では作業員救出前にまず彼らの目を守るため、
レイバンという有名なメーカーのサングラスを投下したそうです。
もちろん剣道の試合を通しては、何が何でも勝ちたいという執念に駆られた、
綿密な戦略の組立てと意表を突く戦術の発想法に強く刺激を受けました。
そして最も大きな学びは、
たった一度の人生ならば端から常識を無視し、
自分のやりたいように生きてみるのも一興であろう、
というアドバイスだったと思います。
そのマンガは以前、全て処分したのですが、
絶版になった後にまた何となく読みたくなり、
数年前に古本で買い揃え、
今も時々、パラパラとページをめくったりしています。

最後にもう一つ。
これもまた少しだけ大きくなった、それでも小学生の頃の記憶なのですが
「宇宙の向こう側はどうなっているのか?」という極めて難しい問いかけを、
何かの科学テレビ番組を見ながら始めたことがあります。
詳しい話の内容は覚えていないのですが、
私と父では宇宙の向こう側についての見解が異なっていてどっちも引かず
どちらも納得できるような結論には達しないまま
グルグルと議論していたことが記憶に残っています。
未だ私は宇宙の向こう側がどうなっているのか理解することは出来ません。
しかし父は今、もしかしたら
「なるほど、これが答えか」
と微笑んでいるような気がしないでもありません。

話が長くなってしまいました。
生前はみなさまに本当にお世話になりました。
有り難うございました。