連載第56回
2011年2月21日
素敵な歌と舟はゆく

 今更小学低学年時に観たアニメ映画の感想を書くなんて、その時に感じたそのまま素直な気持ちは当然ながら詳細に覚えているはずもなく、とても公平とは言えないのですが、オッサンになってから気付くあんな事こんな事も、書き連ねてみればもしかしたら暇潰しの読み物として面白いかもしれない…そう思い立ったのはもちろん、この正月に「実写ヤマト」を観たのがきっかけです。

 そもそも一体何故戦艦なのかと。子供の頃はまるでそんな所に疑問を抱く事はなかったのだけれど、冷静になる間でも無く朽ち果てた戦艦大和をレストアして宇宙に飛び立たせるという誰が見ても奇抜で突拍子もない発想は、実のところ原作者の抱いているであろう信条の側に立ってみれば全く違和感の無いものだったのでしょう。つまり「あの悲劇の象徴としての戦艦大和が、行って帰ってくるのだ」と。そこにこそ意味を見出していたはずです。しかしそこに焦点を当ててしまうと折角のお気楽な映画百本も楽しくなくなってしまうので、今一度問うてみます、戦艦大和が宇宙に飛び立ってしまうのはどう見てもオカシイだろうと。まずなにより可笑しいのは、その姿形が「舟」そのものであることです。先頭には波動砲、後尾には何かしらの新技術による推進用の大きな穴が開けられ、底部には第三艦橋が追加されるなどの未来的修正が施されてはいるのですが、必要があるのか本来水に浸かる部分にはサビ止めのような赤い塗料が塗られ何処となくレトロなツートンとなっていたり、やはりこれは舟です。
 ところが少し思い巡らせば普段「舟(船や艦も含む)」と呼んでいる物が全て水の上に浮かんでいるものとは限らないことに気付きます。例えば潜水艦。外観は真っ黒なほぼ筒状でしかも移動中は人目につかないよう水中に潜んでいる、それでも舟です。では水から離れて空に目をやると、ゴム(これもまあ筒状ですが)に空気を詰め込んで宙に浮かせている風船というもの、形状はかなりプリミティブですがまさしくこれも舟と呼ばれています。それを発展させて人が乗れるようにしたものが飛行船。またもや、舟、なのです。
 確かに、英語でも宇宙船はSpace Shipと呼んだり共通するものもあるのですが、潜水艦はSubmarine、風船はBalloonというように舟と直接関連付けていない物もあります(やがて宇宙船はスペース・シャトルのように飛行機の形状に進化、宇宙では形状は関係無いのですから再び重力圏に戻る際には飛行機として繰り返し振る舞えるのは合理的です)。思うに、島国日本に住まう我々の内に古代から連綿と続く何かがあるのでしょうか、広大な場所へゆらり揺られて漂い出るものにどうやら「舟」を見出している気がしないでもありません。宇宙という広大な空間に戦艦を飛ばしてしまう感覚もそんな民俗的視点から見ると何ら不思議でも無い、ノープロブレム、そんな気がしてきました。

 さて、サイズや形状を厭わず舟として広大な場所へ飛ばしてしまう、そんな日本人の感覚は、まるで予想だにしなかったものまで飛ばしてしまいます。同じ舟でもそれは「ゆうれい船」です。
 『宇宙戦艦ヤマト』に先立つ事1969年に劇場映画として制作された、まだ若き宮崎駿の名も原画スタッフとして見つけることの出来る東映アニメ映画『空飛ぶゆうれい船』はリアルタイムでこそ劇場鑑賞出来なかったものの、夏休みや春休みになれば定番として『太陽の王子ホルスの大冒険』と並び幾度となく繰り返しTV放映されていました。当時新聞で「ゆうれい船」が放映されると知ると、その時間には必ずTVの前に陣取ったものです。思えばオッサンとなった今に至るまで「ヤマト」をまた観たいと思った事は一度たりとも無かったのに「ゆうれい船」は機会があればまた観てみたいと幾度も思った…その差は何に起因していたのか。
 そもそも、オリジナルはTVアニメだった「ヤマト」が映画として劇場公開するに至る裏にはどのような思惑があったのでしょう。もちろん興行の成功を見込んだところもあるのでしょうが、それよりも(憶測ですが)「映画にしたい」という熱意が先行していたように思います。もしかしたらそこには、テレビより映画の方が表現としてのレベルが上なのだ、というスタッフの認識もあったのかもしれません。しかし、これは以前『カーズ』の感想文でも触れた事があるのですが、ほとんどがTVアニメ放送時の素材を再編集したものに過ぎなかった「ヤマト」の映像は、たとえ熱気に溢れた劇場のスクリーンで上映されたとは言え(熱気は観客の間で共有されもしたけれど)、子供だった僕にすら何ら新しい発見をもたらさなかったのです。

 それとは逆に「ゆうれい船」は、TVの小さな画質の悪い4:3のフレームに押し込められた状態で見たにも関わらず、本来劇場公開映画として製作されただけの質感がそこには保たれていました。当時の僕はそれを無意識に感じ取っていたらしいのですが、今ふと見てみても映画のスクリーンサイズを想定し効果的に練られた構図が、幾年経た後も強く印象に残る要因になっていたと気付くのです。例えばゆうれい船が雲上で敵の攻撃を受けて「雲の中に撃沈」させられ、さらに空を落下して海上に着水し沈む、ゆうれい船を遠方に捉えフレームの中であえて小さなサイズで描いているこの場面は長い間記憶されていたし、海中(!)を敵陣営に向かって行くゆうれい船を飲み込もうとする大ダコのスケール感もうまく描かれていました。そして何より、戦艦であるヤマトも、ゆうれい船もそれぞれにワケを背負って闘うのですが、まるで記憶に残っていないヤマトの戦闘シーンに対し、ゆうれい船クライマックスでのカッコ良さは子供心を鷲掴みにしたのです。秒数にしてほんの僅か、意表を突いて海中に張られた弾幕の中を突き進んで行くゆうれい船を追うカメラの迫力はペキンパーの『コンボイ』かイーストウッドの『ガントレット』かというくらい(どちらも「ゆうれい船」より後の製作だけど)、その直後姿を表すものの敵の正体が未だ「よく分からない」というとても児童向けとは思えない演出と凝ったストーリーに画の作り込み、気が付けば映画の本当の主人公である「ゆうれい船」が空を飛び海中を行く目茶苦茶な設定にまるで違和感を生じさせないという、つまりこれが高濃縮された映画クオリティであると。思えば「ヤマト」はただ冗長に2時間半もの時間を漂うところ、驚くべきことに「ゆうれい船」は上映時間僅か60分なのです。

ひと言メモ

監督:舛田利雄(1977年/日本/146分)ー鑑賞日:1977/08/某日ー

■沖田艦長の最後の台詞はグッと来ます。
■そんなヤマトにも子供心をワクワクさせるところは幾つもあって、例えば木星の浮遊大陸とか反射衛星砲、ガミラスの海が硫酸であるところ等はSF好きな部分を刺激してくれました。個人的には終盤、古代の兄に抱かれたスターシャの見せる喜びの表情にエロスのようなものを感じ取った記憶が残っています。
■当時のパンフレットだったかに、制作スタッフの「宇宙での爆発を表現するのが難しかった」というようなコメントがありました。確かに誰も見た事が無いのですから相当悩んだと思います。ヤマト後、宇宙での爆発のアニメ表現はリアルであることを無視して気持ち良さ優先で変化していったように思います。
■「ゆうれい船」についてはまだまだ書きたい事が山ほどあるのですが、基本的に劇場鑑賞作品に限定している映画百本ではルール違反なので、これくらいに。

■敏腕プロデューサーも最後は自身が「舟」となって旅立って行ったということでしょうか。こんな記事を紹介しておきます。http://otaking-ex.jp/wp/?p=11013