連載第31回
2009年1月31日
去年を待ちながら

 僕にとって、それはいつやって来たのかと言えば、2001年だったということになるのでしょうか、かつて思い描いていた未来を「今」が抜き去ってしまった瞬間です。まだ遠く先に在ったはずの未来はしかし、やがて我が身をもって直に体験することになる。頭の中では分かっていたけれど、まるであっけなく、ありふれた日常の「今」を纏ったまま通り過ぎたその瞬間には、かつて期待していたようなものなど何もありませんでした。これを書いているすぐ一年後の未来、それからさらに10年後を想定した、とあるSF映画では、砂浜でApple IIcと戯れているヘイウッド・フロイド博士を見かけることが出来るのだけれど、その映画を公開時に劇場で鑑賞した時には、未来であるはずのその時まで可動するようメンテナンスされたレトロ・コンピューターを持ち出すなんて、博士も何て酔狂な趣味の持ち主だと思うと同時に、未来である舞台へ「今」を持ち込む(引きずる)その場面にはあまり感心できませんでした。しかしその時が目前に迫った今、自分が未だ無事に可動するSE/30を所有していることを思うと、少なくともミステイクでは無かったと、むしろ名作と呼ばれる前作より冷静に、今と連続する未来を想定できていたとも言えます。

 最初にオリジナル版の本作を観たのは学生の頃、実はテレビ放映されていたものだったりします。それからほどなくして、地方のとある繁華街の劇場でリバイバル上映されていたのを観に出かけたのですが、初公開時から全国津々浦々を渡り歩いてきたフィルムだったせいか経年劣化が凄まじく、この映画をしてこれからの未来観を決定付けたとも言われるネオン街の谷間に降り注ぐ「雨」は、タイレル・コーポレーション応接室内に場面が変わってもまったく止むことなく降り続けていました…。自由にできるお金の持ち合わせの少ない貧乏学生、かつて公開された過去の映画をわざわざリバイバル上映で観るのは初めてだったのだけれど(ビデオを持っていなかったことも理由の一つ)、フィルムはこのように時が経てば劣化していくものだということを知ったのも初めてのことです。それからまた時を経て上京後にディレクターズカット版を、そして今回のファイナルカット版に至るのですが、さて、この映画に対して特別マニアックな関心を抱いているわけでもない僕が、物語の結末もディレクターズカット版から変わらず、さして大きな変更も無いささやかな編集の施されただけという、この『ファイナルカット版』を劇場まで観に出向いた理由は、新たにリマスタリングされた画質の確認にありました。かつて田舎の劇場で観た、劣化したオリジナル版に降り続けた雨がよほど印象に残っていたのか、クオリティアップした映像とは言え元は80年代初期の作品、少し疑心を抱いていたのは確かです。

 果たして、その映像は期待以上の鮮明さでスクリーン上に展開しました。デジタル化されたデータをフィルムを介さずそのまま投射するDLP上映方式と相まって、そこには劣化による「雨」はもちろん、埃など微塵も流れること無く、十数メートル離れた大画面にもかかわらず、これまでフィルムやレーザーディスク、DVD等のメディアを介して観てきたものより遥かに高画質な映像があったのです。

 しかし断っておくと、僕は決してハイファイ至上主義者では無いようです。もちろんオリジナルを限りなくそのままの状態でエンドユーザーまで引き渡すという意味で、その途中経過における劣化が少ないことに越したことは無いのですが、そこで重要となる「何か」の輪郭がぼやけて意図が曲げられてしまう程の悪影響が無ければ、さほど問題とも思いません。芸術作品のように唯一無二の「本物」であることが求められるものとは違い、そもそも劇場で観る映画はフィルムのコピーによって配給されるものだし、しかも本作のように幾度となく作り直されたりもする場合があるのですから。では、単に画質の確認以外に、部分的に作り直されもした本作を観る意味は何か?大袈裟に言えば、映画自身の待ち受ける未来の確認なのです。さらなる画質向上という一要素、映画には無くてはならない画の進化は今回確認出来た。では今後その画はどのように変化していくのか。現時点で有望視されているのは、これまで平面表現に過ぎなかった実写映像に、何と奥行きを取り込む3D映像というものらしい(参考記事)。
 まだ実際にその最新映像を観た事がない人間としては、かつて話題となった飛び道具的こけおどしにしか使われなかった3D映画しか思い浮かばないのですが(実際にそれを映画館で観た事は無いのだけれど、以前その類がテレビ放映されていたものを見かけたときも、わずかに立体効果が適用されている箇所が推測できるという程度の稚拙な演出でした)、そこに映るもの全てにz軸による奥行きを与えた映像とは一体どういう体験をもたらすのか、それは本来映画が伝えるべき何かとは別のところにあるものだという反論も想像できるのだけれど、かつてトーキーの出現に抵抗を示したチャップリンもやがてそこに取り込まれていったように、何かしらの不可避的変革がもたらされる可能性も否定できません。単なるモノクロ平面写真の連続体に音が付き、やがて色彩が、そして様々な合成が施され、さらにはフィルムの束縛から解き放たれ、遂には奥行きが追加される。果たしてそれは依然として「映画」なのかどうか、実に興味のあるところです。

 さて、この映画が舞台とするのは再び現在からたった10年後、2019年のロサンゼルス。ここで描かれているような世界が現実のものになるとは誰も信じていないのは疑いもないのですが、これに限らず、すぐ今にでも追い越されてしまうような、あり得ないほど近くの未来を設定したSF作品がどうしてこうも多いのか。それは、そこで描かれる何かにとって、少なくとも人間自体は想像を超えるような変化をしてもらっては困るからです。そこに住まう人は、今僕らが知っている人間の本質を変えないままで居るのであろうと想定出来るような、手の届く未来に閉じこめられていると。作品中あちこちで散見される「今」、例えばそれは「うどん」であり「ピアノ」であり、そして過去と今を繋ぐ唯一のものとしての「写真」が、現在と変わってはならないと要請される人間を繋ぎ止めていたりする。映画というメディアが表現技術においてこれからも進化していく中で、劣化していたオリジナル版当初から、ピアノの上に飾られた写真同様、本作にも全く変わらずにあるもの、それはまさに人が自由落下運動を始めようとする、つまり人が人でなくなってしまう断絶の瞬間を、ネクサスという「未来」が、「今」に繋ぎ止める動作にも発見されるのです。

ひと言メモ

監督:リドリー・スコット(2007年/アメリカ/117分)ー鑑賞日:2007/11/29ー

■ピアノの上にいくつも並べられた写真。何故か凄く惹かれるシーンです。
■そして多くの近未来SFに現れないアイテム、携帯電話はもちろん、ここでも登場しませんね。出てきたらそれはそれで、あまりにも「今」過ぎるのですけど。
■映画を所有しようとする場合、画質の面だけで言えば、個人的にはBDでもう十分かなという感じもします。