連載第33回
2009年2月8日
そして残ったもの

 かつて数十年前にヒットした洋楽に、ビデオがラジオ・スターを殺したという非常に物騒なタイトルの歌がありました。一般的な解釈では、そこで歌われているビデオというのは所謂プロモーション・ビデオ(以下PV)、つまりはブラウン管を通して、動く映像と同居する音楽を放送する手法が台頭し(つまりはMTV)、それまで音だけで成立していたラジオの在り方が時代遅れになってしまったというような歌詞内容です。この楽曲がヒットして以降しばらくして、日本にも海外のPVが流入し始め、テレビジョンを通じて洋楽が流れるようになりました(しかしここで確認しておくと、僕がその楽曲を知ったのはラジオ放送を通じてであり、テレビ放送ではありません)。中学から高校までの間は、確かにラジオで新しい音楽を知る機会よりも、テレビの深夜放送、例えば小林克也が司会をしていた「ベストヒットUSA」などで知る機会の方が多かったと思います。
 現在のテレビ放送あるいは衛星放送などで、PV放映に特化された番組がどれだけ残っているのかはまるで知らないのだけれど、ビデオを伴う音楽放送の効用については個人的にはそれなりに認めていたりします。それは音楽の質の良し悪し、または好き嫌いに関わらず、何かしら映像を付加しておけば視聴者をブラウン管に釘付けにしておくことが出来るところにあると。おそらく、嫌いなジャンルの音楽がラジオで流れている場合はすぐにチューニングを変えてしまったりするだろうし、特に興味もない音楽の場合は全く無視して他の作業を続けることに没入出来るのですが、テレビ画面上に目新しい映像が動いていると、肝心の音楽がどうあれビデオの最後まで何となく付き合ってしまう場合がかなり多くなるのです。

 商品の持つ価値情報を、与えられた短い時間の間に一般視聴者へ的確に伝える必要のあるCMの作法は、当然この監督の熟知しているところ、前作に引き続きこの作品にもそのテクニックは引き継がれています。まずは音楽の使い方、冒頭に配置された木村カエラの劇中PVから始まり、ラストに至るまでの2時間超の上映時間の中に的確に配分された幾つもの映像付き音楽は、歌詞による心情説明も合わせ、物語を制限のある時間枠内に詰め込むことに役立っています(本作をミュージカルとして捉える人もあるようですが、それはPVを決してミュージカルとは言わないように間違っているのではないかと思うのですがどうでしょうか。また表現手法が実験的なのかと言えば、個人的には『シェルブールの雨傘』の方が、投入された技術量は雲泥の差が在りつつも、断然意欲的であると思ったりしています)。

 片や、もっぱらここで映像の持つ過多な情報は、CGの多用やカラーコレクションによって強調された色彩、カットチェンジの多さ、状況とは関係の無い突飛な着目点などによるもので、それらは物語を補強するというよりはむしろ、常に観る側をスクリーンに釘付けにしておくことに貢献する類のものです(つまりはプロモーションの要請するところかと)。本作で見られるような、あからさまなCMの作法を映画に持ち込む事に対して、よほど抵抗のある人でない限りは拒絶反応を示すこともなく、生まれてきた時から同様なテレビ映像に慣れきっている若い世代なら、これを見始めたら最後、性に合うかどうかはともかく、エンドロールが流れ終わるまで見続けてしまうでしょう。確かに2時間超の上映時間を、その長さのわりには感じさせないはずです。では最終的に視聴者に伝えるべき情報として記憶に残ったものは何か。

 鑑賞から3年近くを経て、きらびやかなビジュアルを伴う数々の音楽満載の本作において未だ僕の記憶に在るのは、百貨店ビル屋上で催されていた駆け出しアイドルのレコード発売記念イベントです。そこで彼女が歌う昭和歌謡風な楽曲と、バックダンサー交えた3人の繰り出す微妙にヘンなフリ。何故その場面が強く印象に残っているのか、その理由がレトロっぽい音楽にあるのか、あるいはフリにあるのか分かりませんが、全編に渡るプロモーション映像の洪水の中で僕に正しく伝達されたのはそこです。

 脱線ついでに付け加えておくと、PVとして映像を伴った音楽と、空気の振動だけで聴く単体の音楽、果たしてどちらが価値ある情報を持ち得ているかと考えれば、あくまで音楽の側に主体を置くなら、それは余計な情報をまとっていない状態である方が、より「豊か」であると言えます。実のところMTV時代と共に成長期を過ごしてきた僕は、さほどビデオ映像的なものに抵抗は無いのですが、 音楽にインスパイアされて頭の中で展開するイメージは、実際に網膜を通して得られる視覚イメージ、それが最先端の手法によって視聴者を釘付けにするものよりも、遥かに豊潤だったりするのは、今も昔も変わりません。

ひと言メモ

監督:中島哲也(2006年/日本/130分)ー鑑賞日:2006/10/22ー

■公開に先駆けてラジオでオンエアされていたボニー・ピンクの歌う主題曲は、それ単体で聴いていた時はキャバレー風なアレンジも手伝って大いに興味をそそられたにも関わらず、この感想文を書くにあたり、全く忘れていて思い出すことはありませんでした。映像主体として見た時、やはり想起されるのは「USO」の方です。
■邦楽に限れば、これまでのPVで印象に残っているのは、いつかテレビで放映されているのを見かけた宇多田ヒカルの「光」だったり。例のごとく何年も昔に途中から見始めて、もう記憶も定かではないのですが、あれって1シーン1カット、固定カメラ長回しだったような…。もちろん手法云々というより、その場面に映っている宇多田の動作仕草やら表情やらの持つ情報量が豊かだったのが理由かなと。
■ともあれ、この映画が公開されて以降、原作本がある程度の売り上げを伸ばしたのであれば、文字通りプロモーションになっているのではないかと。本という媒体が好きな僕としては嬉しい限りです。とは言え、未だ原作は読んでないのですが。
■そんな『シェルブールの雨傘』、デジタルリマスターで今年リバイバル上映しますね。これは観に行きますね。