連載第34回
2009年2月9日
思いがけずスカーレットだったので

 … 男は小さく溜息を付きながら起き上がると、炬燵の上に足をかけて立ち上がり、そのままの勢いで天井からぶら下がっている電灯に向けて両手を差し入れ、切れた電球を回しながら、女に代わりのものを持ってくるよう声をかけた。女は炬燵に入ったまま男の言葉を無視し、薄暗いなか週刊誌をながめながら蜜柑を食べ続けていた。その時、昨晩から振り続けて屋根に積もった雪が、大きな音を立てて庭先に落ちたのだけれど、しかし二人はまるで気付かなかったように、そのままの姿勢で沈黙を保っていた…。

 イタリック指定はしていていも、これは何からの引用でもなくて、たった今、単なる思い付きで書いた文章です。コタツのある部屋に男女二人、季節はリアルな影響を受けて冬に設定されていて…云々、さて、二人はどんな関係でどのような状況に置かれているのか分からないのですが、どこかしら古めかしい、貧しさのような趣があって(個人的には好きな画です)、まあ、ここで提供されているのは文章で書かれたままの状況です。では次に、二人に名前を与えてみます。

  … ルパンは小さく溜息を付きながら起き上がると、炬燵の上に足をかけて立ち上がり、そのままの勢いで天井からぶら下がっている電灯に向けて両手を差し入れ、切れた電球を回しながら、クラリスに代わりのものを持ってくるよう声をかけた。クラリスは炬燵に入ったままルパンの言葉を無視し、薄暗いなか週刊誌をながめながら蜜柑を食べ続けていた。その時、昨晩から振り続けて屋根に積もった雪が、大きな音を立てて庭先に落ちたのだけれど、しかし二人はまるで気付かなかったように、そのままの姿勢で沈黙を保っていた…。

 一体何が起きたのでしょうか、うらぶれたアパートの一室か何処かに、まさかルパンとクラリスがいるとは驚きです。コタツで暖まっているところからして、おそらく場所は日本、どんな理由で二人はそこに居るのか、しかも何となく険悪な雰囲気だし…とまあ、こんな感じで、それまで誰でもない誰かだったものに名前を与えた途端、彼等はその名前にふさわしく動き始めます。まあ、ここでは意図的に極端な名前を与えたのですが、名前が無かった時には主にその風景や人の立ち居振る舞いが意識されたのに対し、名が与えられてからはその場面より以前にあった出来事や、それから展開するであろう未知の物語への関心の比重が大きくなります。

 なぜこんな事を書いているのかと言えば、本作では、特定の階層に属している人間をひっくるめて冷静に観察するという目的を持った主人公の「固有の名前を一度捨てて、再びそれを獲得するまで」が描かれているからなのですが、その試みは完全に達成されていたかと言えば、素直に頷くことが憚られます。実はこの映画を鑑賞するにあたり、例のごとくまるで事前情報を仕入れていなかった僕は、その奇をてらったタイトルからまだ無名の俳優を使ったインディーズ映画の類だろうと思っていたところ、意表を突いてスカーレット・ヨハンソンが主人公として登場、いくらナニーとかミスター&ミセスX、ハーバードといった汎用な名称を与えられても、スクリーン上では世間に名の知れた女優が運動するのですから、その他大勢のナニー(子守)としたところでその名称は本作において問題なく動作する一人前の「名前」として十分に機能してしまうのです(もちろん僕が英語に不慣れないせいで、発音される言葉に特定のイメージを持てないのも起因しています)。原作本ではどのような効果を発揮しているか分からないのだけれど、この試みは視覚情報を持つ映画では致命的。それを回避すべく考案されたのか、序盤におけるミスターXがなかなかその素顔を露にしないところは非常に面白かったのですが、さすがにそれも限界、いよいよお披露目となったそれが、これまた近年頻繁にスクリーンで見かける良く知れた顔の持ち主、ポール・ジアマッティなのですから撃沈です。

 では匿名性を最大限に発揮するために、台詞の中でそもそも終始呼び名を与えないとか、首から下だけの動作をカメラに収めるたらどうなるのだろうとか、学生ノリなことも考えたりしたのですが、実のところ役者の動作によるイメージ喚起よりも、言葉のやりとりや表情の演技による比重が大きい一般的な演出になっているので、顔を見せないわけにはいかない。では、顔を見せるだけなら無名俳優でも十分なハズだけれど…ここでふと思い出すのは以前読んだスタニスワフ・レム『ソラリス』にあった問い掛け、もしそこに現れたのが記憶にある愛しい人の容姿を真似たものではなく、全く醜い怪物だったら、果たしてコミュニケーションはうまくいったのだろうか?
 本作では最終的に肯定的結論を置いていて、それを観る側に納得させるためには、共感を得やすい容姿に支えられた、確かな知名度を活用するのは理にかなっているとも言え、では同様の理由で著名ミュージシャンなど異業種役者を採用したりするのはどうなんだろうかとか、珍しくカメラの前で役者が演じるという事に関して考え始めたら夜も眠れなくなってしまった、という昔何処かで聞いたような懐かしいオチでとりあえず〆ようかと思ったのですが、今一度、自分自身にこう問うてみました「スカーレットで何か不都合でもあったのか?」と。いや、確かに彼女が演じる事によって妨げになるような不都合は、物語としては何一つ無かった。しかし、あえて希望を挙げるとすれば、スカーレットのその視覚的特権性を差し当たって2時間無効化してしまうような、強力にしてかつ平凡な名前を授けられていたら…とは思います。そんな名前、あるんでしょうか。

ひと言メモ

監督:シャリ・スプリンガー・バーマン&ロバート・プルチーニ(2007年/アメリカ/106分)ー鑑賞日:2009/01/17ー

■おそらく終盤でアレコレ僕が悩んでいるような問い掛けについては、演劇とか映画を専門に学問しているところでは、とっくに解決済みで結論が出てると思われます。まあ、無知の戯れ程度に。
■子供にはちゃんと名前が与えられていたのは公平を欠くのではないか、と思ったり。
■何年か前に観た、この二人組監督による『アメリカン・スプレンダー』が演出面で結構面白かったです。その時の主演がポール・ジアマッティで、その後さまざまな映画で見かけるようになりました。
■本作の主旨とは全く関係無いのですが、参考としてテッド・チャン著『あなたの人生の物語』収録の「顔の美醜について」が面白いです。