連載第35回
2009年2月15日
映画百本とは

 昨年末、それまでMacintoshのカスタマイズネタの提供を中心として4年間続いた当サイトをリニューアルするにあたり、では次に何を中心に据えて継続していくかぼんやりと考えていた中で、しぶとく居残った戯れの一つがこの映画百本。今さら映画の感想というのもネット上では星の数ほど散らばっていますし、全く思いもつかなかった視点で映画を捉えた、目の覚めるような評も発見できる中、一体何を動機として自分のような人間が文字入力を続けているのかと言えば、単純な話、楽しいからです。誰かが表現したものを鑑賞し、感じたことを言葉に置き換えていくのは、映画に限らず音楽でもスポーツでも、もちろん料理でも可能だけれど、例えば僕がなぜ音楽を対象とせずに映画を選んだのか自分でもよく分からないのですが、音楽で感じたことを言葉に置き換えたところで、そこで生まれた文章はあまりにも貧しくなってしまうのが分かっているから。よくある例では、洋楽CD国内盤に封入されているライナーノートなどで見られる「文学っぽい」評、その文学っぽい雰囲気を非難するわけではないのですが、ハッとするような新しい視点で音楽を捉え直すことに貢献するわけでもなく、あれが一体どれだけその音楽を「ありのまま」他者に伝えることが出来ているのか甚だ疑問に感じるのです。加えて最近では読書感想をつぶやくことにも個人的に疑問を感じ始めていて、元々言葉を綴って書かれて在るものを、再び言葉で評していく行為が、単純な話、楽しくないのです。音楽なら聴けばよい、小説なら読めば良い、ただそれだけです。映画の場合は…どういうわけか観て楽しくて、書いて楽しい。僕にとって今のところ、余暇における一番の娯楽になっています。
 もちろんどんなジャンルにおける評論でも突出したレベルに到達している物はたくさんあり、それは元来突き抜けた能力を持つ人が書く行為におよんでようやく独立して存在出来る「表現」の域に達しているのであって、僕如きが感想文を認めたところでとても表現にはなりません。確かにまだ少ないとは言え、少しずつ増えている映画鑑賞本数を再利用し、今話題にしている映画を以前体験した映画と比較することで成立させる手段も使えるようにはなってきたものの、それは距離を置いて見れば、過去の映画体験を頼りにしているという点からして、本質的に自分自身を映画というフィルターを通して語っているだけ、要は自分の宣伝に過ぎないとも言えます。そんな敗北主義的な映画百本の立ち位置はあらかじめフリフリのインフォメーションに明記してあるのですが、それとは別のところで恩返しというか、感想文を通してその映画への興味を読者が抱いてくれたら…という思いもあったりします。そう仕向けるため昔から心がけている事の一つに「あらすじ」を書かないという基本中の基本的なことがあって、これは小学生の頃の担任教師による「感想文にあらすじは書くな」のアドバイスを数十年キチンと守っているだけなのですが、いくらただの映画感想文とは言え、冒頭にまず「あらすじ」が親切に書かれてなくてはその作品をイメージできないような読者を、さすがに僕も想定してはいません。さらに加えて最近では、迂闊に「泣いた」とは書かないよう注意するようにもなりました。その生理現象も思えば過去の固有な体験を手掛かりとして誘発されるものであることには違いなく、自分の宣伝には成り得るものの、その体験が他者と共有できるとは限りません。そこで生じた他者との齟齬は「え?オレは全然泣かなかったよ」のたった一言と共に、本意から外れてその映画の価値を著しく貶めてしまうことになりかねないのです。さて、上述したような制限を設け、伝えられる情報の少ない中で、読者の関心をそこで取り上げている映画に向けさせる効果的な手段として僕が取っているのは、「何を言ってるんだコイツは?」と思わせることだったりします。

 本作がそれまでのピクサー作品とかなり違った印象を受けるのは、おそらく終盤において一般に観る側の感情を最も揺さぶる場面が、従来とは異なり極めてに静かに伝えられるところにあるのかもしれません。アニメーションの在り方としては個人的にあまり賛成は出来ないモノローグによる状況説明も加わって、確かに効率的ではあるけれど、そこで描画されるのはただ音声による述懐の背景画でしかないのです。契機として料理評論家が受けるインパクトの直前(ビジュアルとしてあまりに記号的ではあるけれど、確かにこれは観る側にもある記憶を呼び起こすスイッチの役割を十分に果たしています。しかし、果たしてその記憶は実体験によるものなのか、もしかしたら過去の似たような物語の鑑賞体験によって予め捏造された記憶では無いのか、とか…)、厨房で仲間のネズミ達と共に大団円的な調理の行われる場面が、ある意味、動的なクライマックスとも言えるのかもしれませんが、参加匹数は多くて見応えがあるものの、実のところそこでの運動自体は機械的であり、既に説明されていることの反復でしかありません。その、事前に行われている説明の場面というのは、本編の前半で十分に堪能することが出来ます。

 難を逃れ、ようやくパリの地上へ出たレミーがまず先に訪れるグストーの料理店。軽く登場人物の説明が成された後、不注意にも天窓から厨房にあるシンクに落下してからのシーケンスが圧巻です。せわしく動き回るスタッフの間を小さな動物が気付かれないように逃げ回る、アクションシーンですから当然カメラの動きも一段と激しくなるのですが、それでも観る側が混乱に陥らないのは、周到にも先ほど天窓から厨房の配置などを視覚的に伝えて在るからです。幾つかのトラップを通過した後、レミーがその才能をダンスを舞うかのような動きの連続で披露し、少しのブレイクの後(目立つ動きはないものの、居合わせた女性料理評論家にレミーの腕前が評価される重要な場面を挟みます)、若き青年との関係もスムーズに確立される。説明的な台詞はほとんど無いまま、的確に設計された動きだけで状況を語り、さらに今後の展開の契機にしてしまう見事さ、この一連の画による連続体は何度見返しても感嘆するしかありません。さらに付け加えるなら、先のドタバタの場面において、レミーは成り行きにより一瞬客間に移動してしまうのですが、来店している客人達がパニックに陥るような展開にはならず、レミーはすぐ厨房へ舞い戻ることになります。時間にして見落とすくらいに僅かではあるけれど、この描写は実に示唆的、つまりこの物語においてようやくレミーの見つけた居場所は、あくまで「厨房」である、と。レストランという言葉が邦題にはあるものの、客間で繰り広げられるドタバタ活劇ではなく、一貫してレミーはあくまで料理人として職人的裏方に徹する。自分に与えられた役割を自覚した者にとって、自分の居場所を見つけるまでのストーリーを描いたものが本作だとすれば、後半においてレミーがもう一度だけ例外的に客間を訪れ姿を見せるのが、すでに料理評論家以外に客人の居なくなった後であること、そして「誰でも名シェフ」という甘く誤解を招きやすいキャッチフレーズが、実は、才能を持った者だけが分け隔てなく仕事を手にすることが出来るという、極めて現実的で厳しい意味であることを裏付けるかのように、本来料理にはまるで興味の無かったリングイニが、調理から離れウェイターという役割で才能を発揮する場所は、当然の帰結として、厨房ではなく客間にあるのです。


 追記:上述した圧巻のシーケンス、実は’07年の劇場公開前にその部分だけ抜粋してネットで公開してしまうという、にわかに理解し難い太っ腹の宣伝には大いに驚かされました。これを書いている現時点ではまだリンクが生きているので、まだ未見で興味を持たれた方はコチラからどうぞ。

http://www.apple.com/trailers/disney/ratatouille/

「Clip」と書かれているところから、PC環境にあった映像サイズを選択して下さい。たった10分という短い時間ではあるものの、それだけで十分に短編映画として成立する見事な出来栄えになっています(前後に監督のコメントあり)。米サイトに掲載されているものなので日本語字幕はありませんが、その不足分を十分に補って余りある豊かな動きの妙技、前作『カーズ』から更にクオリティアップしたレンダリングの質感(例えば様々な食材の放つ色彩とか、レミーを覆う毛の動きとか)、そこで目の当たりにするのは、まさに「驚き」以外の何ものでもありません。

ひと言メモ

監督:ブラッド・バード(2007年/アメリカ/112分)ー鑑賞日:2007/07/29ー

■ちなみに、冒頭に「あらすじ」を書かないことと、感想文の要請により「ネタバレ」してしまうことは、僕の中では矛盾しません。念のため。
■本文の中に書いておくのを忘れてしまったのですが、4年前、僕の書いたMac mini改造記事を読んだ、おそらく日本に留学中の外国人学生か、日本語を勉強している外国人と思われる方から「極めて難解な日本語」のメールをもらったことがあります。それはMac miniカスタマイズに関する質問だったのですが、主となる質問の最後にさりげなく添えられていた「映画の感想が面白いです」という一言が、今の僕を支えている気がします。今思えば、たぶん社交辞令だったのでしょうけれど、都合良いように解釈しておきます。