連載第50回
2009年5月24日
ニッポンのかしこい選挙

 以前、とある地方に住む老人のおしゃべりを直に耳にしたのですが、その時の内容はざっとこんな感じ。

●自民党「とにかく、いつも自分の名前を大声で連呼している印象しかないなあ。」
●公明党「あそこはわざわざ老人宅に出向いて親切に話しかけるんだよ。「おばあちゃん、投票用紙にはね『公明党』って書けばいいだけなんよ」って。親切にされたおじいちゃんやおばあちゃんは「あ、そうかね」と言われた通りに書いちゃうわよ。うまいよねえ。」
●民主党「なんか中途半端というか、なにもかも印象薄いねえ…あそこは。」
●共産党「一番選挙運動は真面目や。どういう政策を持っているかということを街頭で細かく説明するんや。でも、言ってる事が難し過ぎてちっともワケが分からん。」

 笑いました。いや、作ったわけではなくて実際にその老人が話していた内容を要約してみただけなのですが、当たらずも遠からじというか、うまく各党の選挙に対する態度や特徴を捉えているのではないかと思います。

 選挙に行くか行かないか。とかく行かない人の理由と言えば昔から「関心が無い」とか「都合がつかない」というのが一般的だと思うのだけれど、最近多く聞かれたのは「票を入れたい人がいない」というもの。確かにその気持ちは分からないでもないのですが、それは選挙という仕組みの捉え方のピントがややズレているのではないかと。直近の例で言えば、民主党の小沢一郎にまつわるエトセトラ。西松建設からの違法献金問題によって世論は代表を辞するべきという意見が大勢となったワケですが、果たして国民というのは「リーダーというものは潔白で汚れなき正義の味方でなければならない」とでも思っているのでしょうか。それはどこかの夢の国に住む女性が「きっといつか私にも白馬に乗った王子さまが結婚を申し込みにやって来るに違いありませんわ」と無邪気な幻想を抱いているのに等しいものが感じられます(ここには「結婚=幸福」という短絡も見受けられます)。
 そもそも選挙とは、自分の主義主張や理念に寸分違わず見事合致している人を選ぶのではなく、ましてや汚れなき無垢な人を選ぶのでもなく、それまでの任期中にコレといった結果を出せなかった者、期待通りに働かなかった者を「選ばない・落とす」機会と捉えると面白い。絶対正義の人なんてこの世にいる訳がないのですから、それぞれの政策も白か黒か区切るのではなく相対的に見るべき、世論がある偏りを見せている時、もし自分がそれと相反する方角を志向しているのなら、そこへカウンターをぶつける為に対立候補者を選択するという「積極的な」手段もあり得ます。立候補者は我々の代表でもなければ先生でもなくて「使い捨ての駒」なのですから。僕等はその捨て駒をここぞという場面で臨機応変に盤上へ打ちに行くのです。もちろん捨て駒ですから、賞味期限が過ぎてしまえばゴミ箱へ捨ててしまって一向に構わないし、そのタイミングは風の吹く向きを良く見て判断すれば良い。このように、こちらの期待に応えなかった無能な駒や利用し尽くした駒を落とす為の制度こそが選挙と考えるなら、翻って僕たち有権者に課せられる責務は「前回自分が投票した駒がちゃんと任期中に機能しているか監視する」ことに。その定点観測の結果が、次回に票を入れるか落とすかの判断基準になるのです。選挙運動中に大声で理想をぶち上げるのは中学生にだって出来る、要はそれを実行出来たかどうかが問題、選挙という制度そのものに潜んでいる脆弱さは、およそ多くの有権者がただ単に未来への「期待」だけで貴重な票を投じてしまうということ。投票後にはすぐ無関心に戻るようでは、それは決して「かしこい」選挙ではないのです。

 余談ですが、かつて小泉首相がブイブイ言わせてた時期、その期間中行われた幾つかの選挙で僕が地区立候補者の選定基準にしたのは「食料時給率問題への言及度」でした。今でこそ、ようやく日本の自給率の危機的状況については日常的に耳にするようになったものの、当時そんな話題で話の出来る人間は周囲に皆無。郵政ナントカやら刺客候補ナントカやらで国やメディア全体がお祭り騒ぎしてた当時「食料自給率ってなに?」という状況で、僕がそれを唯一の拠り所にして投票したのは、以前『華氏911』の感想文にも書いた通り基本的に多数決でしかない選挙は「どんな結果になっても納得するしかないシステム」であるが故です。もちろん多勢に無勢、そもそも世間の関心の無い自給率への言及も論点としてのプライオリティは限りなく低く、結果は言わずもがなでしたが、基本的にまず投票しなければ納得することも出来なかったはず。いや、もちろん自給率問題はまるで改善されていない事からして今なお注目していますし、それ以前に水資源を如何に守っていくか(あるいは作り出すか)も重要課題なのではないか。そして水を確保しようとすれば、森林をどう管理するかということにも繋がって行くのです。

 さてしかし言うは易し、定点観測には根気も必要で非常に難しいのは確か。翻ってここで立候補者を支持擁立する側に立って見れば、国民こそ「使い捨ての駒」。我ら有権者の抱く淡い「期待」など、いかようにも操作出来てしまいます。実際、一般的な国民にとってそれは漠然とした印象でしかないのですから、その印象の強度を高めるにはどのように働き掛ければ良いのか、非常に短い選挙運動期間中、真面目に政策論議を交わしたところでその効果が全体に行き渡り、正しく浸透するには限度があります。そもそも政策なんて難しいことに注目している「かしこい駒」なんてどれだけ居るのかという現状なのですからここは効率を最優先すべき。有権者の「期待」の根拠なんてそもそも単に「見た目」かもしれないし、帰宅後も耳に鳴り続ける「名前」だけが印象に作用するのなら、すべきことはただ一つ、可能な限り街頭に立って顔を晒し自分の名前を大声で連呼し続ける、それが最も有効な手段のようです。かつての森首相による「寝てしまってくれればいい」に続いて、先の自民党は古賀誠選挙対策委員長による「総選挙投票率は低い方が望ましい」発言は、上述した「票を入れたい人がいない」と言う一見至極真っ当な事を言っているようでいて、実際には多勢の捨て駒でしかない者達の有効な活用法を心得ているからこそ、現状、かしこい選挙を行っているのは、そんな国民の傾向を知り尽くしている候補者擁立側にあるようです。

 いつものように前置きが長くなりましたが、このドキュメンタリー映画は、政治とは無縁のズブの素人である切手コイン商の主人公が成り行きで川崎市議会補欠選挙に立候補、いわゆる三バン(地盤・看板・カバン)の無い落下傘候補である彼が、驚くべき事に当選してしまうという摩訶不思議が起きるまでを非常に近距離なカメラで追った作品。その距離の近いことと言ったら、まるで節度が無いと言ってよいほどで、長年培われた組織側の戦略(割と単純で、とてもかしこいとは思えないのだけれど)が見事結果に結びつくまでの裏側の様子はまさに目から鱗。しかし主人公を擁立する組織が、彼の当選の為に行う決定的な事と言えば、何も難しいテクニックを使っているわけでもない、投票の当日、最寄りの投票所に出向いて、紙に鉛筆を使って名前を書く、ただそれだけなのです。

 しかしここで露になった現実を目の当たりにして僕等は決して絶望してはなりません。ここで必要なのは、これを見て大いに笑うべき態度、そのしたたかさをして明日を未来に繋げるしかありません。いやホントに大笑い、抱腹絶倒の2時間。…まあ、落選した方々にはただ同情するしかないですが。

ひと言メモ

監督:想田和弘(2007年/日本・アメリカ/120分)ー鑑賞日:2007/10/06ー

■これを観ると僕なんかでも当選できそうな気分になります。連呼はのどが疲れるので、声をサンプラーに入れて口パクでイケるんではないかと。ちなみに午前8時から午後8時以外の連呼行為は公職選挙法で禁止されているようです。
■支持していた党から立候補して、しかも当選してしまった彼が、どうして次期選挙には出馬せず、議員を辞めてしまったのか。もしこの映画を真面目に見るのならそこに注目すべきかと。本作自体はコメディに近いです。
■ビデオ映像の手持ちカメラだったせいか、鑑賞途中で非常に気分が悪くなりました。この手の映像で体調を悪くするのは『チーズとうじ虫』以来2度目。同じ手持ちカメラでも、フィルム映像だと問題無いんですよねえ。不思議です。
■想田監督の最新作は『精神』。日本ではタブーとも言える精神病患者を追った作品ということで、それも機会があったら観て見たいですが、公開する劇場が限られるかも。