連載第51回
2009年6月14日
印象のはなし

 ダーウィンという有名な固有名詞の使われたタイトルと、ナイルパーチという巨大な肉食の淡水魚の組み合わせで連想すると、ヴィクトリア湖におけるこの巨大淡水魚の生態異常をレポートした科学ドキュメンタリーなのかしらん…と本作の内容を憶測したのですが、実際にはまるでその主旨は異なっていました。ここにあるのはグローバル市場経済における搾取の構図、以前にも感想を書いた『おいしいコーヒーの真実』同様、今ではその手の題材を扱った映画などいたるところに溢れていて、互いに遠く離れた国の間を移動するのは食料のみならずダイヤモンドからレアメタル、アジア圏ならジーンズやスポーツシューズまで多岐にわたるのですが、ここでダーウィンという名前が使われたのはナイルパーチという生き物の「進化」とは全く関係なく(ナイルパーチは単に増殖しているだけ)、どうやら「適者生存」「自然淘汰」「弱肉強食」というような意味合いを含んでいるようです。つまりここで言う強者とは北半球に住む人々であり、弱者とは南半球に住む人々であると。ところが強い者が弱い者をうまく利用しているという状況は、今に始まったわけででもなくて、グローバル化が始まる遥か以前の昔から変わらず流れは常に一方方向であるということ、アフリカの産む様々な富は常に北側へ吸い上げられているのです。

 もちろん、僕等もそういったシステムに生まれた時から参加しているのは言うまでも無いのですが、例えばこの映画に描かれているアフリカの状況が改善されるにはどういう契機が必要なのだろうかと思うに、まずは彼等自身が知恵を付けることかと。そう突き放したように書くと少々差別的に聞こえるかもしれないけれど、アフリカに限らずどこの世界でも基本的に商売というのは相手が必要としている商品価値情報の全てを知らないところにつけ込む要素があるわけで、例えば日本でも欠陥住宅を建築知識の無い素人の客に売りつけるというような場面は今でもあるだろうし、金融商品も顧客がみなそれ相応の経済知識を備えていたり、裏情報を即入手できる手段を持っていたら成り立たないわけです。より多くの情報を持てるものが、持たざるものから搾取する。規模や程度の差こそあれその構造自体は世界一様、GMの社員も各々は真面目に働いていたであろうに、まさか長年忠誠を捧げてきた会社が破産しそうだなんて、まるで知らされていなかったに違い在りません。知らない者は知らぬうちに知る者によって利用されている場合が多々あるのです。
 しかしただの感想文とは言え、いくらなんでも「自ら知恵を付けろ」とはないだろうと。置かれている状況を把握出来ていない人々が居るのなら、持てる者が外部から手を差し伸べるべきだという思考は働かないのかとか、あるいはまた、全ての商売人がズル賢いわけでもない、むしろ顧客に役立ち喜んでもらうことを第一とした商人の方が多いに違いないとか。いや、確かにそれは人として正しい立ち位置であるとは思うのですが、今回はそういった文脈で感想を書き連ねることに(もちろん、ただ書くだけなら幾らでも可能なのですが)少々無理を感じるのです。

 ザウパー監督がジャーナリストとしての視点でセンセーショナルに訴えようとしたもの、それは遠く隔たった二つの世界を行き交う貨物飛行機の、その貨物の中身にあるというのはなかなか面白くて刺激的ではあるものの、しかし、この告発を知らされて何か行動が取れるような「気分」が、実は全く起らない。122分ある本作から受けるのは甚だ陰鬱な印象であり、少しでもそこからすくい取れるような前向きな何か(『おいしいコーヒーの真実』では辛うじて見つけることの出来たもの)、もしかしたらそういったカットも含まれていたかもしれないのだけれど、鑑賞してから2年経って今も思い出されるのは生理的に拒絶してしまうような映像の数々のみであり、期待の持てるような何かは残念ながら僕の記憶に残っていません。
 かのように、映像の力はとても強力です。先日、とあるラジオ番組でアフリカの印象についてゲストが語っている場面があって、いつかまたあの場所を訪れたいと繰り返すゲストの、その言葉の端々から想起されるアフリカの印象はまさにこの世の楽園なのですが、確かに日本国土の何倍あるのか分からない広大な大陸に大小様々な国々があるのですから、その印象を一つに括れるはずもないのだけれど、言葉以上に強い印象を焼き付ける映像手段が、多様な側面を持つ対象の中から一つの要素だけを抜き出している可能性があるということを知っているのなら、観るものはスクリーンに流れる映像に常に懐疑心を持って対峙せねばならないでしょう。

 しかし頭でいくらそう考えていても、映像の力は遥かに強力です。刺激的な映像を持って世界に衝撃を与えるという意味では、このドキュメンタリー映画は成功しているのかもしれませんが、そこから一歩前進する意欲を端から挫いてしまうような気持ちの悪さは、気分を萎縮させ絶望しか与えず、その諦観から絞りだした唯一の言葉が、持てる側が自身の責任を放棄して相手に丸投げしてしてしまうかのような「知恵を付けるしかない」だったのです。果たして、ドキュメンタリー映像とはどうあるべきなのか。監督の意向が作品に反映されるのはドキュメンタリーとて常識、カメラの捕えたありのままの現実を並べるのは当たり前としても、そこに光を挟み込んだら作品として生ぬるくなりインパクトが無くなってしまうのか、あるいは、そもそも視聴者はどんな映像からも目を逸らしてはならないのか…。今までになく作り手側の態度に関してあれこれ考えさせられたこともあって、本作を観たのは確かに有益ではあったのですが。

 彼等が自ら知恵を付ける機会(つまり万人に与えられるべき教育制度の整備)は果たして訪れるのかどうか、例えば貴重な資源を取引相手に与えるだけでなく、自国の為に活用するような仕組みの構築とか…いや、正直なところそれは難しいのかもしれません。思うに、その機会がやってくるよりも先に、アフリカにまつわる遥か昔から続いた搾取の構図が崩壊してしまうのではないか。一方的に続いていた南から北への富の流れが寸断される契機は、そこに関与する人々の努力に拠るのでは無く、ただ単に、吸い上げてきた資源が全て枯渇することによってようやくもたらされるのではないか…と考えてしまうのです。

ひと言メモ

監督:フーベルト・ザウパー(2004年/フランス・オーストリア・ベルギー/112分)ー鑑賞日:2007/05/26ー

■それは今世紀中に起るのでは?
■本作では「戦争があればもっと金になるのに」という元兵士をしていた警備員のコメントも出てきます。さらにAIDSが蔓延していてもコンドームの使用を否定する立場を取る牧師とか。果たして彼らは知る側なのか、知らぬ側なのか。
■しかし世の中の構造上、知らぬ者の存在は、必要とされていたりするワケです。なので本作が、これまで隠されていた何かを世間に知らしめてくれたとしたら、それはそれで有益だったと考えることも可能かと。
■僕は未だに知らないことばかりなので、たぶん誰かに利用されまくっているのだと思われます。どうしよう。