連載第62回
2014年5月24日
鉢猫の不在について

 鉢猫が居なくなりました。もちろんヤツのライフスタイル、いや、生き様は「野良」なので、居なくなったという表現は微妙に間違っているのだろうけれど、早朝から夕方にかけて数回、植木鉢を「世界に絶望するための場所」として訪れることをヤツの日常行為と認識していた僕にとって、全く植木鉢にやって来ないというのは世界から消えて無くなったと同然に感じるのです。
 普段、鉢猫と僕が遭遇するのは朝、起床してから仕事に出かける直前の身支度している時に限られていました。休日の在宅時に一日観察したところ、鉢猫は朝〜夕方までの間に数度、植木鉢と外界を行き来していたようです。その生活パターンを何となく把握したのが今年1月4日の初めての遭遇からしばらく経った頃で、居なくなったと感じたのが3月中旬くらいだったか…それからもう2ヶ月になります。

 「居なくなった」と感じたのは、植木鉢の状態が朝チェックした時と変わらない様子が数日続いたから。不在の気配…とも言うべきか、それは何となく分かるもので、今ではその証拠に雑草が誰にも邪魔されることなく小さな黄色い花を咲かせています。

 暖かくなって植木鉢を利用する必要も無くなったか。猫であるが故にすっかり飽きたのか。あるいは絶望することに飽きたのか。逆にこの世界に微かな希望の光を見出せたのか。とにかく、鉢猫は居なくなりました。僕と鉢猫の間には決して縮まることのない距離があったし、勝手に家族扱いするのも可笑しな話とは言え、理由が明確にされないまま不在に遷移するのは、気分が宙ぶらりんのままどこにも着地出来ないという、これまで経験したことのない心理状態に僕を陥らせたのでした。頻繁に起こる事ではありません。

 ふと「事故に遭った」とか「処分された」とかいう不穏な考えも横切ったのだけれど、どんな理由であれ、今の気分に早く踏ん切りを付けたいなあという気持ちが、事件後によく聞く「そこに至った経緯を知りたい」という残された者の言い分への、頭だけではない、実感を伴った理解の幾分かの助けになりました。

 既に視界から消え失せてしまっているのに未だ心が捕らわれてしまう。認識に抗うような、いやはや記憶とは厄介なものです。しかしながら、これまで幾度となく経験してきたように、こんな気分にもやがて僕自身、飽きることを知っていて、その時が訪れるのをいつもと変わらぬ日常を送りながらゆっくり待っています。



そして僕の「勝手家族」はカネノナルキだけという状態に戻りました。ちなみにこのブログを書いて、気分がかなりスッキリしたというのが今回の発見です。