連載第1回
2020年8月3日
私は如何にして心配するのを止めてAppleが嫌いになったか?

僕はアップル様が嫌い

最近、Appleが気にくわない。ひと昔前のように、定期的に開催されるスペシャルイベントにも胸ときめかなくなり、夜中までリアルタイムで講演の配信を追いかけることもなくなったし、翌朝に日本の関連サイト等で簡素にまとめられている発表内容を斜め読みしても驚くことはなくなった。事前予測していたものはそのまま想像した通りに発表され、想定外のものであってもかつての初代iMacや初代iPhoneの時のような驚きはもはや微塵もない。PowerPCからIntelに乗り換えるというような企業政治的な意味で逆ベクトルに振り切って来るような驚きもほとんど無くなった。経営的にはそう舵を取るだろうというある程度の読みが、経年により自分のような労働者階級にも予測出来るようになったこともある。

もしかしたらこれは、Appleに限らず、自分を取り巻くあらゆる物事への関心が薄れ始めているとも言える。その気配は数年前からあった。体力や集中力の衰え、つまり老化である。生き物として全方位的(特に重力)に屈し始めたのだ。自身でも昨今で云うところの所謂「老害」の領域に差し掛かったと感じる場面が多々ある。若い世代が考えることや価値観の偏重に得心いかない。その結果としての必然なのか何なのか、今のAppleは気にくわない。やることなすこと気に入らない。「自分は大丈夫、この情熱はこれからも変わらないであろう」と信じていたはずなのに、あっさりと人間は陥落し、それまで好奇心を向けていた対象に醒めた眼差しを向けるようになる。相反して「Apple」は若い世代に広く支持されながら企業規模拡大の一途を辿っているのはどういうことなのか。益々気にくわない。

諦めるのは早い方が良い。

私は如何にして心配するのを止めてAppleが嫌いになったか?
続くかどうか分からないが、これからしばらくの間、気が向いた時に駄文を垂れ流していきたい。

忌避感を持ち始めた切っ掛けとなった最近の事柄

ざっと思いつくところを書き殴ってみたが、他にもあるかもしれないし、逆に今はどうでも良くなったものもあるかもしれない。ただリストアップしていてふと気付いたことがある。誰にも気兼ねすることなく、ネガティブな意見を書き連ねる行為は何と心地よく、甘美なことか。

老いると時間が無尽蔵に湧き出てくるとうい言説はもはや誤りである。時代は変わり、いまや個人の自由になる時間はどんどん奪われ、失われていく。たとえ不意に、目の前に「自由時間」が現れたとしても、自分はぼんやりと虚空を眺めて無為に過ごすことがほとんどだ。