連載第1回
2006年7月20日
暴力を超える暴力

 冒頭、二人の男が自動車の周りで物語には直接的に関係のないと思われる会話を交わしている場面、その自動車1台と二人の男をフレームに収めたカットが割と長い時間続くのを眺めながら、とはいえそんな場面は別によくあるものと思いつつ、自動車がゆっくり移動し始めたのに合わせカメラも並行に横へ移動していくのを見るにつけ、はて、クローネンバーグってこんな風にカメラを扱う監督だったっけ、と疑問が沸いたものの、彼の作品を観るのも何年ぶりだし、その間に趣向が変わったのかも知れない、これは面白そうだとそれに続く展開を期待したのだけれど、その場面は僅かの余韻も残さず終わってしまって、後は昔の記憶にあるクローネンバーグ独特な画に落ち着いていったのですが、その静けさは十分に不気味でしたし、これはこれで最初のツカミとしては面白いのではないかと思いました。

 この二人の男が、主人公によって息の根を止められる、本作の主題への導入部がある種の爽快感をもって受け止められるのに対し、次第にエスカレートしていく暴力はしかし、物語の終盤へ向かっていくにつれその爽快さが希薄になっていきます。中盤のクライマックス、家族の居るところへ押しかけてきたマフィアとの対峙は、そこに守らなければならない家族が居るという緊張感が最高潮となる場面で、なんとか事態を収束させたものの気分を満たすのは爽快感とはほど遠いものに。その理由はそこに描かれる状況を見れば納得がいくところ。主人公がこれまでのトラブルを収束すべく舞台を移動した後の暴力描写も、前半~中盤の爽快感や緊張感を欠いた、些か凡庸なアクションに堕ちてしまいます。というより、むしろ笑える箇所もあって、実際場内からは笑い声が聞こえてきたりしました。この緊張感の欠如の原因は、場面構成からも指摘するのは簡単で、つまりそこには主人公が守るべきものが何も無いからに他なりません。さすがに敵の本拠地へ家族を伴って旅行気分で赴くわけにもいきませんし、確かに主人公本人が乗り込んだら、驚くべきことに既に敵一味が家族を人質にしていた、なんて展開もできなくはないですが、相手が一人で来ようとしているところにわざわざ先回りして家族を拉致するような手間をかけることは現実的にもなかなか考えられません。この部分の弛緩は、原作がコミックであったものを映画用に書き直したことによるのか、そもそも過去の清算というノワールにはつきものの物語構成要素にさほど重点を置かなかった監督の意向が反映された結果なのか、それは分かりません(ちなみに脚本は監督本人によるものではありません)。

 この映画はタイトルにバイオレンスと打っている割に、描かれる暴力から肉体的痛みを感じさせることは個人的には然程ありませんでした。むしろその意味では、それまで穏和だった主人公の息子が爆発して繰り出す蹴り上げが作中のピークであり、ついにそれを越える痛みは最後まで出てこないのです。男子にとって「ソコ」を蹴り上げる場面は見ているだけでもナカナカ辛いもの、これに比べれば一発で事が済んでしまう頭蓋への銃弾の一撃など、死にゆく者への情け深き配慮とさえ言えるでしょう。

 さて、クローネンバーグといえば有機物本体、あるいはそこに無機物を交配させての外的・内的変身が作品の主題になることが多いのですが、今回の主人公は変身というよりもこれまで家族に隠してきた本質が図らずも暴露されてしまうというもので、その点では彼の息子の内面的変身の方が物語上での意味があるように感じたりするのですが、従来通りのクローネンバーグ的変身をなぞるなら、ここではむしろ暴力によって変身(変形)を強要させられるそれ、つまりこれまで正常だった人間が一瞬にして醜いボディ(死体)に帰すところに意味があるのでしょう。しかしながらそのボディ、あれから長い時間が経ったことを実感してしまうのですが、弾丸を浴び、あるいは主人公の鉄拳を浴びて変容した肉塊は意表を突いたグロテスクさで作られているものの、僕の気持ちを萎えさせるほどにはリアルに感じなかったというのが本心です。よりリアルな肉塊の描写はここ数年で驚くほど進化しているのですが、これが特殊メイクを担当したプロダクションの伝統芸なのか、やはり担当を変えても同じテイストにしてしまうクローネンバーグの強力な個性なのか分からないのだけれど、あろうことかそこには如何にも手作りといった懐かしさを感じたりも。というわけで変化という意味において個人的に作中で最もリアリティを強く感じたのは、夫婦のセックス時における感情変化だったような気もします。つまり行為の起動のされ方が前後で全く異なってしまうのですが、まあ、それは世間でよくあること、つまらない指摘をしてしまいました。

 普通ならここで感想文は終わるのですがもう少しお付き合いを。暴力の感染というものを主題にした本作を、その存在自体から木っ端微塵に吹っ飛ばすような、はるかに強力なスーパー暴力描写が僕を襲ったのです。

 主人公夫婦の2度目の情交の後、バスルームから、ローブがはだけ前方を開放した状態で出てきた妻に対し、配給は彼女の陰毛をボカシで覆い隠すというとてつもない暴力を行使(詳しくは知らないけれど、映倫自身がボカシ処理を行うわけではないだろうから、予め配給側が審査基準を考慮しての判断なのでしょう)。その衝撃たるやそれまでスクリーンに投影されていた世界に没入できていた僕の意識を鷲掴みにし客席に残してきた肉体へ強引に押し戻してしまったのです。ここに至るまで、あれだけおぞましい肉塊を幾度もスクリーンに晒しておきながら、なぜナチュラルに人体から生えているたかが「毛」如きに恐れおののいているのか。さらにそのボカシ自体の醜さも指摘しておかねばなりません。まず、たかが陰毛を覆い隠すにはあまりにも過剰なビッグサイズ。しかも黒色ならまだしも、何を余計な配慮をしたのか肌色を使ったため、ボカシ背後にある妻の裸体に妙になじんでしまい「彼女はどうしてイキナリ下半身デブになってしまったの!?」と驚いてしまったほど無様な合成結果に。そもそもR-15という年齢制限を課しておきながら、改めてソコを覆い隠すとは、憂うべき前時代的制度による暴力、まったく意味がワカリマセン。

ひと言メモ

監督:デイヴィッド・クローネンバーグ(2005年/アメリカ/96分)ー鑑賞日:2006/07/08ー

◆近所の本屋をぶらぶらしていたら、この映画の原作コミック(翻訳版)が一冊ひっそりと置いてありました。駅前の小さな本屋だけど、オールジャンルでかなり品揃えが良く重宝してます。潰れてしまわないように、ネット通販は極力使わず、現物がある場合はリアルにこの本屋で買うことにしてます。

◆DVDでも上映時と同じボカシを使っているのでしょうか。それはそれで面白いのかもしれませんが、いや、やはり迷惑な話です。