連載第2回
2006年8月13日
沈黙のあと

 映画が始まってその映像にフィルム・グレイン(ノイズ粒子)がほどよく散りばめられているのを見るにつけ、とても心が落ち着いたのを覚えています。実はこの映画を観たのは昨年の11月頃だったか、遅れに遅れて今書いている感想文ではあるけれど、もし簡素に走り書いて済ますにしても、そのフィルム・グレインについての印象は必ず書いておこうと思い続けていたのです。しかしさすがに先送りも度が過ぎ、もしかしてノイズに対する記憶や情熱もただの勘違いなのかもしれないと思い始めていた矢先、つい先日『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を映画館で観て、いや、やはりグレインがチリチリとスクリーン上に明滅しているのは、ある種のフィルム体験には無くてはならないスパイスだと改めて確信したのです。この手の映像はある程度歳を重ねた人間には、なるほど、どことなく懐かしさを想起させてしまうのですが、当然それは監督の明確な意図を持って施されているわけで、ここではその時代設定(50年代)を考慮してのものでしょう。しかしこのようなフィルム処理は単にノスタルジーを感じさせる目的で使うだけでなく、もっと積極的に使っても楽しいはず、例え未来を舞台にした作品であっても使う場面と加減をわきまえていさえすれば逆効果になるなど決してありません。
 しかしこのような見解に対し、フィルムからDVDなどへフォーマット変換を施す際に使われるソフトウェアを製作する一部技術担当が、「フィルム・グレインに魂が宿るなんて言うのは、ただのロマンチストだ」というようなハイファイ至上主義的な発言をしたことが発端で各方面いろいろ議論を呼んだことが過去にあったとか。フィルム上に残ったゴミや傷を除去する際、グレインもゴミと誤判断して除去してしまう、その結果抽出された映像は、極めてクリアではあるものの、かつてはそこにあった何かが欠如したような、言わば魂の抜けた平坦な画が残っただけだった、と。さすがに現在では「キズやゴミ」と「フィルム・グレイン」を見分けるアルゴリズムも改良され、さらにどの程度まで除去するのか、表現者がその度合いを自由に指定できるほどに改善されているそうです。ただ、このグレインに対する愛のようなものも、時代によって変わっていくのでしょう。20年後には家庭ビデオ映像のような、ピクセルが目視できる低解像度のものに愛を感じる世代が出てくるに違いありません。

 さて、この映画の感想文を『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の後に置いたのには理由があります(両作品を鑑賞した長い時間差を利用しているのは認めるにしても。製作年参照)。主人公も男と女の違いがあり、時代も場所も大きく離れているのですが、両者が持つ物語要素や、その大まかなプロット、そして最後の場面状況に至るまでが非常に似通っているのです。が、そこにある微妙な差異が二つの物語の印象を明確に分けてもいる。作品の比較に拠った感想はフェアとはいえないのですが、個人的に興味深いことだったので続けます。

 これまで楽しく暮らせていた家族の中から、まさか数多くの生命を死に至らせていた犯罪者が出るとは思いも寄らなかった、どう対処してよいのか全く判断できないという状況下、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の家族はそれでも主人公を受け入れようとする「状況」が生まれます。末娘はまだ的確な状況判断が出来ていないと思えるので文字通り小市民、息子はやむをえなかったとはいえ同じ立場に身を置いてしまったことにより、主人公を拒絶する理由を失っている。最後に残された弁護士としての妻の判断、それは保留されるのですが、ここで重要なのは、主人公の暴力の歴史を肯定する下地が出来上がってしまっているという、現実社会の縮図といえる舞台空間の状態です。たった4人とは言えど、ここでは「(一般に正義とされている)民主主義」によって「暴力が肯定」され、後生に「引き継がれる」という僕等が生きている今という時代のリアルが描かれているのです。暴力に対する暴力が何故無くならないのか。実はそれは「民主主義自体は(正義かどうか)疑われない」という巧みで強力なルールによって肯定され続けているからなのではないか。付け加えるなら、民主主義は「投票結果を肯定させる」ための仕組みであり、それ自体は必ずしも善を生み出すとは限らないのです。
 『ヴェラ・ドレイク』に話を戻すと、とりわけラストカットが印象深いのは、そこに至るまでの2時間におよぶエピソードを経て、そこに降り立った重い沈黙を、さて一体誰が破ることになるのか、そんなサスペンスにも似た緊張感が作中最も高まる場面だからに他なりません。家族の中から多くの生命の断絶に関わる犯罪者を出してしまった、まるで予想だにしなかったアクシデントに、如何に対処してよいのかまるで判断がつかない。テーブルを囲んだ残された家族は、それぞれに立場表明するものの、やがて全員が沈黙したまま、物語自体が判断を保留する。これはまさにサスペンスです。
 僕は両作品におけるそれぞれの犯罪者に対しての、家族の寛容について注目しているわけではないし、またそれが善か悪かという判断もここでしようとは思わないのですが、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』が一連の事件にとりあえずの決着を見い出し、最後の肯定によって物語を終わらせているのに対し、『ヴェラ・ドレイク』の全く宙づりになった状態で断ち切ることの映画的「面白さ」に、より強く惹かれます。つまり『ヴェラ・ドレイク』はラストカットこそが本当の物語の立ち上がる瞬間、それまでのエピソードは、そこに導くためのプロローグに過ぎないのです。かくして、本作のラストカットはより強く印象に残り続ける。もしそれがフィルム・グレインの効果による所為だというのなら、話はもっと簡単に終われるのですが。

ひと言メモ(鑑賞日:2005/11/12)

監督:マイク・リー(2004年/フランス・イギリス・ニュージーランド/125分)ー鑑賞日:2005/11/12ー

■当初この感想文は、本作鑑賞後に起きた、77歳の女性が無資格で助産行為をして母子を死亡させた事件と絡めようと思っていたのですが、ちょっと自分には荷が重過ぎたので大幅に変更しました。

■鑑賞後に知ったのですが、マイク・リーという監督、俳優達には事前に脚本を全く知らせず、6ヶ月にわたって人格形成した後、撮影時にやっと台本を教えたそうです。つまり演じている彼らは、作中の事件を本当にその場で初めて知って驚いているらしい…。機会があればもう一度鑑賞して役者達のリアクションを確認してみたいと思ったり。ということは、順撮りでしょうか?