連載第3回
2006年8月20日
物語よ、音楽に導かれよ

 最後にスーパーマンの映画を見たのはおそらくテレビで再放映されていたもので、それも田舎で観たに違いありませんから、もしかしたら20年近く前のことになるのですが、クリストファー・リーブによるスーパーマン第一作目はしっかり見たような気がするものの、シリーズ化された後の第二作・第三作はテレビ放映されていたのをつまみ食い程度に見かけただけで最終的にどうなったのかまるで憶えていません。そんなスーパーマン・ファンとはとても言い難い不真面目な自分ではあるものの、偶然ネットで本作予告編トレーラーを見かけ、久々に彼が帰って来ると知った時から、どういうわけか無性にワクワクしていました。そしてとうとう待ちきれずに先行上映に足を運んだのです。

 基本的にヒーロー物に然程関心が無い、最近でも『スパイダーマン2』ぐらいしか観ていない(しかも一作目は未見という)ので断定出来ないのですが、おそらく昨今のヒーローのキャラクター設定の特徴として人間的内面の弱さ(身体的・物理的弱点ではなくて)を多分に加味していることがあるのではないか、例の蜘蛛男2ではとても完璧とは言えないヒーロー像が、逆に未完成な僕等を映画の中へスムーズに引き込ませることの助けになっています。そういう前提に慣れてしまった、つまり昔のように単純に完全無欠なる正義を信じられた世界では無くなったという状況を誰もが知ってしまっている時代に、この新作スーパーマンで見せつけられる「不可能」の文字の無い、完璧な力を発揮する青い全身タイツを纏う超人の姿、もし本作でアクションに必要である緊張感の欠いた、何かしら不完全燃焼や違和を感じたのなら、その原因はまさにその「スーパー」な部分にこそあると指摘できるのではないでしょうか。
 加えてまた別の角度から何かを指摘するとすれば、彼がヒーローとしてのスイッチを入れる特別な場所「電話ボックス」の不在を挙げなくてはなりません。携帯電話時代に舞い戻ってきた彼が、事件の絶え間なく起こる都会で市民に気付かれず変身できる場所がほとんど消失していることに戸惑うことなく、どこからともなく唐突に現場へ現れることの違和感。やっとの思いで見つけた電話ボックスへ急いで駆け込もうとすると、そこには決まって先客が長電話をしている、そんな懐かしいお約束のやり取りはこの作品には一切出てこないのです。しかしこれらは本作を観た人誰もが簡単に指摘できること、違和感についてこれ以上文字を連ねることもありません。

 さて、僕が何故、帰ってきたスーパーマンにワクワクしたのか。それは彼の活躍する所に無くてはならない、あのテーマ音楽が場内に鳴り響く、その瞬間の興奮を期待しての事です。あの音楽は特別な何かを持っているのです。
 スーパーマンのテーマ、作曲は大御所ジョン・ウイリアムズ。スターウォーズやインディ・ジョーンズなどのテーマ曲とメロディが似てしまうのは仕方の無いことですが、それら似通った楽曲の中でも一番「曲として」個人的に好きなのが、実はこのスーパーマンのテーマなのです。悪役に窮地に追い込まれ絶体絶命、あるいはとてつもない天変地異で地球に壊滅的危機が迫っている、一体どうなるのだ?というところで、メキメキ火事場の糞力を発揮する彼が場面を急転回させる(文字通り地球を逆回転させたこともありましたっけ)、その高揚感が見事表現されている楽曲構成だと思うのです。当初、この新作スーパーマンのトレーラーがアップルのサイトにアップし始めた頃、どのトレーラーを観てもこのテーマ曲が「使われてない」ということが凄く気になっていたのですが、それは製作会社が変わったのか、それとも何かの権利絡みで使用出来ないのか、どちらにせよあのテーマ曲が劇中に流れないスーパーマンなんて、果たしてスーパーマンと言えるのか?とまで考えました。が、公開が近づいてからは、どの宣伝でもこのテーマ曲をふんだんに使用しているのを聴いてひと安心。しかし何故、ネットで配信されたトレーラーでは使われなかったのか?たぶん曲に合うような劇的展開を短いトレーラー内では巧く効果的に配置出来なかった、というのが主な理由でしょう。これはテーマ曲なのでオープニングやエンディングに流れるのは当然としても、実はこの曲が最もその魅力を最大限に発揮するのは、やはり物語中において劇的転回の場面で流れることにあります。大抵のアクション系テーマ曲は物語の途中に流れることは希だと思いますが、この曲は劇中に配置することを可能にする楽曲構造を持っている(主題が現れるまでの、あのジワジワと気分を盛り上げるイントロがポイント)。だから『スーパーマン・リターンズ』における僕の評価基準は、このテーマ曲を使うべき場所でキチンと使っているか?になる、いや、この曲を使うために物語を構成しているか?ということになるのです。いうなれば「音楽に捧げられる物語」、これが本作の僕の見方です。それが出来ていれば多少細かい部分で物語が破綻していようが、設定の詰めが甘かろうが、SFXの使い方に納得いかなかろうが、そんなことはさして問題ではありません。この映画は娯楽映画なのですから。では期待に胸膨らませた新作、果たしてその物語は音楽に捧げられていたのか。

 音楽に捧げるべく物語を創造するなんて馬鹿げているでしょうか。僕は本来一般認識されている主従関係の逆転も十分にあり得ると思うのです。『ニューシネマ・パラダイス』のサントラを聴くたび、目の前に数々の名場面が生き生きと蘇ってくる、これらエンニオ・モルコーネの楽曲が無ければあの映画もこれほど強く心に残り続けることは無かったかもしれないと思えます。そこでは映像と物語と音楽の見事な共犯関係が成立しているのです。完全犯罪を目論むとき、その目的完遂のため片棒の持つ完璧な能力を活かしきることが先決と判断できるのなら、自分はサポート側に回ることに何の躊躇いも起こらぬはず、かくして物語は音楽に導かれることになるのです。

 そして今一度、果たしてその物語は音楽に捧げられていたのか、との問いに冷静に答えるなら、この魅惑的な「テーマ曲」は己の配置されるべき確固たる居場所を、今回の物語上には見つけられなかった、と言えるのではないでしょうか。
 しかしブライアン・シンガーが監督した『X-MEN』シリーズは未見ながら、一作目よりも二作目が断然面白いと聞きます。もし新生スーパーマンに続編が作られる幸運が巡ってくるとしたら、今回の一作目はその前奏曲として十分に役目を果たしているのは確か。ここで入念に仕込まれた下地を活かすべく作られる続編映像は、その時こそ「音楽に奉仕する物語」を伴って姿を見せるであろうと。ここぞ!という場面で場内に響き渡るテーマ音楽に思わず肉体が共鳴し歓喜する、その瞬間が訪れるのを期待しています。

ひと言メモ

監督:ブライアン・シンガー(2006年/アメリカ/154分)ー鑑賞日:2006/08/12ー

■ヒロインが自宅のベランダでスーパーマンと密会(?)していた場面。彼女が部屋に戻ると、クラークが夕食に喰らいついている。とぼけて振り返る彼の表情に爆笑せずにはいられませんでした。これぞスーパーマンを観る喜び。
■それにしても「スーパーマンになるべくして生まれてきた人」っているもんなんですね。新人のブランドン・ラウス、全く違和感がありません。驚くべきことです。