連載第5回
2007年3月6日
交わらない言葉

 序盤にとても共感を覚える場面があります。文学青年兵士が何かしら重大な軍則違反をおかしたのか、周囲に人気の無い場所にある巨大な岩石の上に鎖で繋がれ一人置き去りにされてしまうシーン。独り残された彼は、かつての仲間から僅かな時間だけ生き長らえるよう与えられた物資を活用し、自分を繋いでいる鎖と杭から身体を解き放とうと奮闘するのですが、その岩を砕いていくプロセスを見せることに映画は長めの時間を割いています。僕がその場面を好いたのは、その間彼が「一言も言葉を発しない」ところ、彼は今の自分の境遇を嘆くことも無く、助けを呼ぶでもなく、怒りや絶望・悔恨の言葉を吐くこともなく、ひたすら寡黙に岩石を如何にして砕くかというところにエネルギーを注ぐのです。どうしてこの場面に惹かれたのかと言えば、実は僕も普段の生活ではほとんど言葉を発することが無いから。仕事を終えて自宅に戻れば、待つ人も居ないしテレビも無い空間があるのみ。唯一音を発するのはラジオですが、かと言ってラジオに語りかけるわけでもありません。もし僕が公安から何らかのスパイ容疑にかけられていて、部屋のどこかに盗聴器が仕掛けられているとしても、彼らは「音」に関する限り、何ら情報を得ることは出来ないはず。とにかく自宅で僕は、一言も声を発しないのです。ところが仲間内でこの話題になるといつも驚いてしまうのは、およそ世間一般ではテレビに向かってツッコミを入れるのは「普通の行為」だということ。テレビのバラエティなどで出演者がボケれば、すかさずそこへツッコミを入れる、または日常においても床に落ちていた物につまづいたら「痛いなあもう」などと発声する‥。これは驚きでした。僕もラジオなどで気の利いたジョークなどを耳にすれば思わず笑い声は出すこともあるけれど、フレーズとして成立した言葉を発することはありません。が、人に言わせればこんな僕の方がおかしいらしい。たとえ独り暮らしであっても、何かにつけて常に言葉を発しているというのが大勢の意見でした。しかしどうなのでしょう、僕から見ればそれこそ至極滑稽、何の反応も返ってこない虚空に向かって言葉を発している姿は、無気味とも。さらに言えば、その対象がテレビというのは寂しさの極みではないでしょうか。自己弁護させてもらえば、僕は独りで過ごす多くの時間、アレコレ考えていることに常に充実感を味わっているわけで、発声しなくとも退屈していることはほとんどありません。
 監督がこの場面で彼に一言も発声させなかった、およそドラマにおいて無声状態に長時間陥ることを恐れる人達が多いなか、これに耐えた事は賞賛すべきことではないかと思うのです。そして青年はまた、人と出会うことによって再び発声することを許されます。

 ところで本作でも物語を発動しやすい状況に男と女の三角形が利用されるのは慣例通りなのですが、発動後の展開により多くの選択肢(自由度)を作り手に与える要素の一つに「すれ違い」があります。例えば約束の時刻に待ち合わせの場所へ行くことが出来なかった、あるいは最初から約束の場所を勘違いしていた、というすれ違いを挿入すれば、容易に一つのエピソードを創り出すことが出来ます。その後は付かず離れずを適度に繰り返していけば、なんとなく物語めいたものが出来てしまう。しかし本作におけるそれは出会いから別れまで、始終すれ違い続けるという大胆さ。彼ら三人は互いに異民族の人、言葉が全く通じないのです。

 言語が異なるために意志の疎通が図れず困惑する。実生活であればとてつもなく支障を来すものを笑いに転化させるのはコメディにおいて常套手段、ここでそれを可能にしているのは字幕の存在です。劇中の当事者が困惑しているのは疑いの余地はないのですが、彼等の戸惑いを僕等観客は共有することはありません。三人がそれぞれに発声する3つの言葉が全て翻訳され、その意図するところを漏らさず汲み取ることが出来る字幕の存在は、それが物語を楽しむためとはいえ、僕はその都合の良さに鑑賞後少々考えさせられてしまうのです。まあ、本作に限らずヒアリング能力の無い僕は常に字幕のお世話になっているので文句は言えないのですが、果たしてこの映画が、字幕無し、もしくはせいぜい主人公の女性が扱うサーミ語のみ字幕にするだけという演出だったら、どう感じることになったのか。例えば作品冒頭に唯一こんな注意書きがあったとしたら?「監督の意向により、本作には一切の字幕はありません」。果たして、そこで僕等はようやく彼等の困惑を共有可能に、しかしそんな映画の上映が終わるまで忍耐が続くでしょうか。

 言語の違いによるコミュニケーションの行き違いが災いをもたらす、幾度も繰り返されてきたであろう、そんな不幸を回避するにはどうすればよいのか。本作がある意味、幸福的な散開をもって物語を閉じることができたのは、生死の境を彷徨う青年に女が呼びかける場面にヒントがあるのかもしれません。そこで彼女は「言葉」ではなく、獣の咆哮を模した「音響」を用いた。彷徨う人間が荒野に木霊(こだま)する「音響」にひたすら耳をかたむけ、そこに包含された意図を汲み取ろうとする態度、映画的演出としては少々冗長ではあったけれど、その場面は実に示唆的であったと思うのです。言葉では無い獣の咆哮、その音響が聞こえている間、もちろんスクリーンに「字幕」は表示されません。

ひと言メモ

監督:アレクサンドル・ロゴシュキン(2002年/ロシア/104分)ー鑑賞日:2006/08/12ー

■ちなみに主人公の女性アンニはサーミ人、青年はフィンランド人、中年男はロシア人。もちろん青年と中年男は戦争中、敵同士。
■アンニの顔立ちがビョークにとても似ているのですが、やはり北欧つながりなんでしょうか。
■久々のロシア映画なんですが、ここまでユーモアのあるロシア映画って初めて観た気がします。しかしそれはロシア映画だという基準で見た場合で、背景やテーマなどはやはり重めなのかも。