連載第6回
2007年4月14日
戦略ナシ(あるいは、跳び蹴りに気をつけろ2)

 およそ怪獣映画、あるいはモンスターパニック系というジャンルの作品に人は何を求めているのか、とりあえず僕の場合、何を楽しむかと言えばまず基本的なところでその怪物の造型や生態、次にバトル描写、ということになります。それらの楽しみどころに本作を照らし合わせてみると、登場する怪物のデザインについては期待したほど意表を突いたものではなかったのですが(出演している女優二人ともにインタビューで”可愛い”とコメントしているくらいです)、本作に限らず僕の中ではもう数十年も『エイリアン』を越えるインパクトを持った怪物に出くわしたことが無く、というかエイリアンはその特異な生態系デザインも含め登場した時点ですでに究極の生命体として完成してしまっているので、なかなかそれを越えられないのは仕方の無いところ。ではバトル描写はどうか。僕は戦闘機による空中戦が大好きなのですが、本作で怪物と対峙するのは主人公家族という一般市民。軍隊ではないのですから、いくら銃火器を所有していようが、こちらがワクワクするようなバトルシーンが展開するはずもありません。一般市民でも出来る演出と言えばせいぜいカーチェイスくらいでしょうが、生憎派手な市街戦が展開することもありませんでした。ここで誤解の無いよう断っておくと、僕には全くミリタリー趣味などというものはありません。空中戦が好きと言っても、戦時中に撮られたモノクロフィルムの映像を見て興奮などしませんし、そこはやはり、けれん味溢れる演出の施された、作り物の世界での出来事と突き放して鑑賞するからこそ、楽しめるわけです。しかし近年のバトル描写は驚くほどに進化し、戦争映画におけるリアルさなど吐き気を催すほどになりました。あくまで娯楽作品である怪獣映画に、そこまで壮絶なバトルシーンを挿入することには意味が見いだせません。娯楽作品において恐怖は「見せない」ことによって増幅されるからです。

 ところが怪獣映画において、実のところ最も面白いのは招集された軍人や科学者たちがアレやコレやと知恵を絞り出す「作戦会議」だったりするのです。そしてパニック物では大概、懸命に考案した作戦はアテが外れて失敗することが多く、しかしそれが転じてまるで予想だにしなかった方角から物語のオチに繋がる仕組みになっているのは周知の通り。分かっていても、そこが楽しい。しかし作戦と言っても軍隊を動員しての大規模なものである必要は決してありません。例えばB級モンスターパニック系の傑作『トレマーズ』がなぜ傑作たりえるのか、それは地中から突然襲ってくる生物に対する防御策が「とりあえず高いところへ登っとけ」という戦術(?)に誰もが共感せずにはいられないからです。あるものは鉄塔へ、あるものは商品棚へ、そして当然のように屋根の上、果ては岩石の上、とにかく地表より高くて頑丈なものへ登る人間たちの滑稽な姿、つまり劇中で考案される戦術は気がつけば概して「オレもその場に居たらそうする」という共通コードで成り立っているのです。

では本作『グエムル』で採られた戦術は?

 この映画が非常に異質なのは、対怪物戦略の不在にあります。和製怪獣映画ならある程度は活躍するはずの軍隊も、ここではせいぜい薬剤を散布するに過ぎず、具体的かつ直接的な行動はとらないまま終わります。そしてその戦略の不在を埋めるように全編を貫くのが、驚くべきことに怪物に対峙した人間の「単独行動」の多さなのです。まず冒頭の怪物登場時に単独でヒーロー的な戦いを挑むのが、現地でこさえた恋人と休暇中をデートで過ごしていた米兵。そこでとりあえず主人公に協力を請うものの、主人公の設定が設定ですから連携は取れないまま散々な結果となります。また物語の主軸を構成する、主人公の一人娘を奪還するために奔走する家族らは、家庭崩壊の危機的状況に、娘を救出する目的を共有しつつも、目的を達成するための戦略が練られぬまま迷走する。果たして、ここに互いへの信頼関係などあり得ず、結局はバラバラの単独行動に陥る羽目になる。加えて終盤、薬物散布反対デモの民衆や警察隊らが逃げ惑う中から、たった一人の警官が拳銃一つで怪物に向かうカットも強く印象に残ります。なぜ彼を一人怪物に立ち向かわせたのか非常に不思議なのですが、これも先の米兵同様、単独個人でのヒーロー的行動を際立たせている場面です。

 そして最終的に怪物に引き寄せられるように再び集結した家族、ポン・ジュノはこの佳境においてさえ、家族に戦略を与えぬまま、それぞれ各人が思いのままの戦術を取るにまかせます。これではおよそ怪獣映画に期待するカタルシスを得ることは難しいのですが、一つ挙げるとすれば怪物に捕獲されていた娘の単独行動、守るべき弱者を守るべく、怪物の武器でもある「歯」を握りしめているカットこそは、思わずグッとくるものがありました。またもう一つ加えるなら、最後の瞬間に己の血を受け継ぐ家族のあらゆることに対する諦念と許しの表情を見せる家長ピョン・ヒボンは、全く逆の観点で影のヒーローなのかもしれません。

 果たして、本作が世間でいわれているような「反米」「家族愛」「成長物語」というコードで括れるのかといえば、それは全く誤解であると。主人公が十分成長したのかどうかも判別が難しいところに、最愛の娘を二度死なす必要があったのか、それは犠牲の払いすぎであるのは明白ですし、また結局は従来の通りバラバラになった家族を指して家族愛云々というのも馬鹿げています。しかしまるで血縁関係のない者と家庭を「再構築」するという結末、上述したような民族や国家、身分を越えた緊急時における単独行動と弱者同士の突然の横のつながり(パク・ヘイルを見返りも期待せずフォローするホームレスなど)を見るに、ポン・ジュノから漂うのはもっと大きな意味での「反体制」の匂いです。戦略ナシ、それは既存体制の機能不全を意味しているに他ならないとも。アキ・カウリスマキ同様、彼も潜在的コミュニストであるかもしれないという指摘は、当たらずも遠からじといったところでしょうか。

ひと言メモ

監督:ポン・ジュノ(2006年/韓国/120分)ー鑑賞日:2006/08/14ー

■全編モノクロだったのではないかと思うほど色彩感の希薄な画作りの中で、サリン事件以来、今では毒素に抗う象徴の色ともなった黄色、そして冒頭でうららかな陽射しの下、ゲソを焼く主人公のカットが異様に美しく映し出されていたのが印象に残っています。
■ポン・ジュノ作品に見られる「跳び蹴り」に気付いたのは前作『殺人の追憶』で、長編デビュー作にも「跳び蹴り」はあったから、感想文サブタイトルとしては「跳び蹴りに気をつけろ3」が適当なのかもしれませんが、昔書いた『吠える犬は噛まない』の感想文はそれとは違うタイトルだったので「2」にしました。
■デビュー三作目にして怪獣映画という驚きの展開を見せたポン・ジュノ。果たして次はどう出るのか?
■追記:新作『母なる証明』は近日鑑賞予定。さて、跳び蹴りは出るのか?