連載第7回
2007年5月19日
ワンショットのリアル

 「全部継ぎ合わせだ。ほら、ライオンがシマウマを見ているだろ。シマウマは別の国で去年、撮影された…」

 ホテルの一室で、女と共にテレビで放送されている動物番組を見ながら男が吐く台詞、第7話「ルース」での一コマです。別にテレビ業界関係者でもない男の台詞が一際印象に残るのは、この映画に収められている短編が全て、ワンシーン・ワンカットで撮影されているからです。全9話の短編から成る本作において、ようやく第7話にしてこの台詞が発せられるのは、実はしっかりとプランニングされたものかもしれません。というのも、いわゆる長時間のワンショットという技巧的な演出が、果たして観る者に技巧的と意識させるほどのものなのか?ということを、今回改めて考えるきっかけにもなったからです。つまり、通常通り継ぎ接ぎの編集で組み上げられていようが、ワンショットであろうが、さして違いは無いように思えたから。ワンショット撮影で有名なのは、聞くところによればヒチコックの『ロープ』ということなのですが、その映画も未だ観たことのない僕は、その作品から特別な何かを得られるのかどうか今なお知らないでいるものの、そこそこの時間であればワンショット撮影というのはあちこちの作品でよく見かけるもの。特に昨今ではテクノロジーの発展(というか大容量ハードディスクによるフィルムの置き換え)により、1時間30分にもなる映画全編をワンショットで収めてしまうものさえあったりします(アレクサンドル・ソクーロフ監督『エルミタージュ幻想』とか)。

 今回改めて考えさせられた事、それは普段の生活において僕らは、捉えようによっては常にワンショットの映像を見続けているではないか、ということです。朝起きてから、夜眠りに落ちるまで、実は一日に起きる全ての出来事がワンシーン・ワンカットと言えなくもない。その途中で無数のまばたきが挿入されることはあっても、それは無視できる微小の時間単位であり、長く映像が中断して前後の辻褄が合わなくなるようなことは起きません。規則正しく8時間の睡眠時間を確保しているなら、僕は一日16時間の凡庸な物語を見続けているわけです(過去の長時間ワンショット作品が影などの暗闇を利用してフィルムを交換していたことを考えると、睡眠による闇も省くことが可能かと)。しかし、毎日16時間の映像を途切れなく脳に蓄積していたら、いずれパンクしてしまうのは分かり切ったこと。何十年も生きていて頭の中が混乱しないのは、目からインプットされる映像を無意識に効率良く処理しつつ、そのほとんどを記憶のゴミ箱に捨て去っているからなのでしょう。残されるのは強く刺激を受けた場面や、後々役立つかもしれない記憶の断片だけ、ハードディスクで例えるなら、脳の書き込み・読み込みは、シーケンシャル・アクセスではなく、ランダム・アクセスということになります。

 断片化された記憶。それを元に一日に起きた出来事を就寝前に順序良くプレイバックすれば、効率良く要点だけを抜き出して編集された極めて映画的な、16時間が30分にも満たない映像に収まるわけです。しかしこのような取捨選択は、何も一日という長時間の区切りに限った話ではなく、映画鑑賞中に対しても積極的に行われています。上映時間にして1時間54分、それを9等分すれば、1編につき約10数分というワンショット撮影は、果たしてそれがワンショットであることを感じさせるものではなかった、というのが素直な感想で、つまりたかが10数分のの物語でさえ、人は10数分全てをシーケンシャル(連続)に記憶しているわけではない。実に効率的に必要な場面とそうでない場面を選り分け、断片化(あるいは圧縮)させている…と、そんな事に今さらながら気付いた次第です。

 そしてもう一つ。ワンシーン・ワンカットにも静的なもの、動的なものの2種類あるのですが、本作は後者にあたり、カメラは各エピソードの主人公を追ってあちこちを動き回ることになります。通常の映画において、必要があればカット毎に画角を変えられるところが、本作の場合は始終同じ画角で対象を捕らえることになる(動き回りながらズームレンズを使う事はしないでしょう)。つまりフレームに収まる風景の範囲は一定に限られている、これも日常における人間の視覚と同様、当然人間の目はズームなんて出来ませんから、ワンショットであり固定された画角であるというのは、やはり普段の人間の視覚体験に近い状況です。実はここに一つの、映像的演出における制約とも開放とも言える効用がある。つまり「写したくないものは写さなくていい」。フィルムを自由に編集できるなら、会話のシーンも二人を同時に収めることなく、切り返しで正面から交互に写すことが可能ですが、ワンショットで画角が固定されている場合、会話の相手が歩いて離れていけば、それはフレームの外側へ消えてしまうことになる。これを上手く活用して強く印象に残るのは、第2話「ダイアナ」でしょうか。女が偶然に昔の男と再会し、ダイナミックに心情が変化する様を描くこの物語は、もしスーパーマーケットという公の空間で二人が始終一つのフレーム内に収まっていたのなら、女はおそらく今の幸福を堅持するために心の動揺を強い意志で抑え付けることになっただろうと推測します。つまりそこに大きなドラマは生じなかったかもしれないのです。がしかし、男が女から離れ、フレームから姿を消した僅かな数十秒で、女の内面には大きな変動が沸き起こる。それはカメラのレンズが捉える視界から男が一度消えなければ起き得なかった、内面変化は往々にして独りで居るときに起こるという現実に忠実とも言えます。そして最終話、物語の要請により「写したくないもの」は少女に適用されるのですが、ファンタジー色の残るこの唯一の例外も含めて、僕はワンショットという常に技巧的に語られてしまう手法も、本作では極めて自然に、つまり「リアル」に受け入れられました(少々都合よく解釈すれば、終盤、周囲をぐるりと見渡すカメラは、その瞬間においてのみ、主人公の視線を代弁している【一人称】にすり替わっています)。その理由はやはり先述した通り、僕はワンショットの視覚世界を生きているからなのでしょう。

ひと言メモ

監督:ロドリゴ・ガルシア(2005年/アメリカ/114分)ー鑑賞日:2006/11/12ー

■たかが10数分とは言え、重いステディカムを担いで動き回ったカメラマンは大変だったと思います。欲しいな、ステディカム(どうすんだ?)
■つまり物語を作り出すために、時に激しく、時に繊細に変化する心情をワンシーンの中で女優達は演じなければいけないわけで。当然、本作ではワンショット云々ではなくて、そこが見どころになります。
■そう言えば夢を見ている最中って、やはりカット飛びまくりですよね?これは断片化されている記憶を都合良く貼り合わせて再生しているのだと考えれば納得できるかも。