まわるフリフリのフリ
FLFL
映画百本 ― 連載第9回

接続される身体

2007年7月1日

 まず印象的なのは物語の中盤、これから長距離を移動するため、路上に停めてあった高級車を拝借しようとしている場面。マクレーン刑事が昔ながらの方法で車のエンジンをかけようとしているところに、ジャスティ・ロング扮する我らがマック君、いや、マット・ファレルが正面のバンパーを思いきり殴りつけ、その高級車のエンジン周りを遠隔制御している警備会社と連絡を取ります。そこで彼はマクレーン刑事のとろうとした手段よりもさらにローテクな方法、つまり感情のこもった「芝居」で警備会社のオペレーターを丸め込み、見事エンジンの始動に成功するわけです。個人IDやパスワードを如何に入手するのかという話の中で、何となく僕たちは所謂クラッカーなる人たちが、オンラインにアクセスしてあれこれコマンドを端末に打ち込んで盗む様子を想像しがちだけれど、実際は直接相手に近づき、それとなく話しかけて会話の中からパスワードのヒントを得たり、あるいはパスワード自体をチラ見したりして盗み取るのが一番簡単で効率が良い、とあるTVドキュメンタリーで語っているのを聞いて目から鱗が落ちました。そう言えばATMにビデオカメラを設置してパスワードを盗む、というカード偽造集団の手口も同じようなもの。作中、もしかしたらマック君がハッキングらしいハッキングをしたのは、高級車をまんまと盗み取るこの場面だけだったかもしれません。しかしここで僕が注目したのは、マック君渾身の「芝居ハッキング」の手口ではなく、その高級車のエンジンが警備会社に遠隔制御されているという点です。

 21世紀に入ってシリーズ4作目、驚くべきことに今回50歳超えというマクレーン刑事が巻き込まれるトラブルはサイバー・テロ。時代の流行に合わせ、コンピューターで制御された社会を乗っ取ってしまうハイテク犯罪集団との対決という設定なのですが、さて、果たしてこれは「新しい」ものなのか。実はコンピューターを用いて制御されている社会システムを乗っ取り「遠隔操作する」という意味において、確かにその手段は現代的ではあるけれど、実は本質的なところで特別に目新しいものでは無いのです。

 人間はその肉体を超え、身体感覚を延長させることによって進歩してきたと言えます。両腕・両足を伸ばしてもせいぜい2m弱という狭い範囲でしか動くことの出来ない人間は、その制約をあらゆる手段を使って拡大してきたのです。まずは太古の人間が、狩猟を安全かつ効率的に行う為、石斧や槍を発明したことを思い描いてみます。たとえ狩る相手が草食動物だとしても、もし武器を持っていなければ肉体を交えた格闘となり、運が悪ければ負傷することもあり得ます。相手が巨大でパワーのある動物ならなおさら、手で殴ったり足で蹴ったりして仕留めるなんてことは非効率以前に無謀なのは明らかです。そこで獲物に近づくことなく獣にダメージを与えるため、人間は安全な距離を保ったまま、その距離を埋めるべく道具を発明、改良してきたのです。そこから遠隔操作の歴史は始まりました。武器はさらに進歩し、ブーメランや弓、あるいは犬を調教したり、さらに銃が発明され、そして地雷やミサイルへと発展、人は己の陣地に居ながらにして、遥かな距離を隔てた敵地に攻撃を加えることが可能に。そしてこちらは動かずして一瞬にして広範囲の敵を壊滅させることが出来る、究極的破壊力を持った核エネルギーを兵器に応用するという悪魔的発想を躊躇わなかったのは、その空間移動と時間の無駄な消費を節約し、そして熱線を浴びて焼けただれた人間を目の当たりにしなくて済むという抗い難い誘惑に負けたのだという指摘は、これまでの距離克服の歴史から見れば大きく的を外れてもいないように思います(しかしながら、戦争が経済的・政策的に短期決着に向いているというのは錯覚で、行為自体の非効率さは変わらないのではないかとも思えるのですが)。本作ではコンピューターを活用しているものの、本作で犯罪集団が使う手段が古来伝統的な遠隔操作であるとすれば、犯罪集団がF−35戦闘機を操縦するパイロットを、あたかも操り人形のようにコントロールしてしまう場面は、合理的であるべきはずの兵器が、使い方次第でまるで愚かで非効率なものに堕してしまうという点も含め、やはり一番の見どころなのでしょう。もちろん、距離の制約の突破は兵器に限ったわけではなく、現代の家庭に視線を移してみても同様。テレビやビデオ、携帯電話、駐車場のシャッターなど、実は遠隔操作による恩恵はいたるところに在る。リモコンをつかって身体感覚を延長する、という麻薬的快楽はもはや日常なのです。繰り返しますが、その身体に密接した快楽が無ければ、現在のような文明の進歩は無かった。空間と同質とも言える時間についても然り、馬を移動装置として活用することに気付いた人間は、その後動物から機械へと利用装置をシフトさせ、さらに地上から空へ向かうことにより、事実上地球の物理的時空サイズを遥かに縮小させました。だから、MacOSX10.5 Leopard のキャッチフレーズが「Conqure Time and Spaces.」であるのは決して偶然ではありません。進化は時間と空間を制御しようとする意思のある場所に立ち現れるのです。

 余談ですが、SF作家ウィリアム・ギブソンの近年の「橋」三部作において、とかく現代が小説に追いついてしまって斬新さが無い、などと言った感想をよく見かけるのですが、ここでギブソンの扱った重要な要素の一つは「流通」なのです。特に『フューチャーマチック』で顕著な、物が物であるという制約によって妨げられる流通の流れを、市場は如何に克服するのか、というサブテーマは、今や本屋に出向くことなくAmazonを介して書籍を自宅に取り寄せるといった、一見、実にこの上なく効率的に思える仕組みの陰に隠れている物理的限界(つまり商品自体が移動することに変わりは無い)にいち早く着目しているという点で、作家として先見の明があるのではないか。そしてかつてのスプロール三部作で描かれたような、永遠を得るために物質の情報への転化を目論むといった古典的主題とは真逆の、物質FAXをハックして情報自身が「限りある肉体として再構築されることを渇望する」といった意表を突いた切り返しは、さすがギブソンの面目躍如といったところ。個人的に初期三部作よりこの「橋」三部作の方が好みだったりします。

 以上のことを踏まえれば、このマクレーン・シリーズに登場する犯罪集団は、その第一作目からして同じ手口であり、如何に相手の目を欺き、そして目的達成のために利用できる要素は可能な限り遠隔操作する、という点で一貫しています。とすれば、サイバー・テロに対して、同じ卓越したハッキング能力を持つオタクをもってネット越しに対決させるといった、およそサイバーパンク的展開が用意されていないのは全く不思議ではないのです。つまり、コンピューターに対してコンピューターで対峙すれば、両者を隔てる距離は維持されたままになってしまう。ここにおいて重要なのは、犯罪集団が確保している安全な距離を縮め、如何にゼロにまで近づけるか?であり、究極的にあらゆるリモコン的要素を無意味化し、主人公と犯罪者を肉体的に接続させてしまう、という物語の構造を取るのは、事実上ネットなくして成立しなくなった現代だからこそ全く必然なのです。

 さて、先に書いた通り、銃は自分が安全である距離を確保したまま、効率的に遠距離にある敵を撃ち倒すために発明されたものと解釈できるのですが、しかし、その距離がゼロになった状況において一瞬、自分の肉体と相手の身体を文字通り弾丸を用いて「接続」するための道具に転換させるというアイデア、どこか昔の映画にあったようなポケットの中の一ドル銀貨に似た泥臭さを感じつつも、仄かなカタルシスを覚えたのをあえて記しておきます。

ひと言メモ

監督:zzzzz(2010年/アメリカ/94分)ー鑑賞日:2011/06/18ー

■映画を観る前は、本当に「マック君はマックを使うのかPCを使うのか」といったところで感想文を書いてしまおうと考えていたのですが、観終えて乗った始発の電車に揺られながら、結局は内容を大幅に変更しました。
■それにしても今回改めて思い知らされたのは、ハリウッド的カーチェイス場面におけるカメラワークの緻密さです。カメラが、その物理的制約を遥かに超えているような感覚というか。車の写っている場面をどう撮るかによって、監督の画のセンスが分かるような気がします。役者の演技よりも、車の動き方を観ろ、っていう感じ。
■このマクレーン・シリーズ、1作目から頑なにラブシーンを排除しているのが好きだったりします。
■で、とどのつまりマック君はMacを使ったのかPCを使ったのか?それはここでは書きません。が、これからは映画の中でデスクトップパソコンが使われる機会は激減するでしょうね。これからはやっぱりiPhoneでしょ(ホント?)。