連載第15回
2007年10月28日
機械の立ち居振る舞い

 本作の要であるCGによるロボットメイキングはこちらの予想を上回るリアリティを持って描写されていて、実写との合成にまったく違和感を覚えないほどのクオリティなのですが、それを実現しているのはレンダリングの質感もさることながら、カメラとのマッチング、いわゆる「マッチムーブ」と呼ばれるものが効果的に使われているからです。マッチムーブとは何か、参考として下記ページ内のリンクにある、シトロエンのCM動画を見てみるとよく分かります。

 1カット目、ゆっくり右に動いているカメラは普通に車を写し、2カット目で車がいきなりロボットに変形、その時もカメラは当然ロボットを追うのですが、カメラ自身もラフに動いていることに注目して下さい。非常にリアルで、ロボットが現実にそこに居るように感じられます。しかし3カット目(ダンスを始める部分)では突如として画が陳腐になる…。理由は簡単、カメラが止まっているからリアリティが希薄になるのです。ちなみにその同じ3カット内では後半に一瞬ズームするのですが、これは然程リアリティに寄与しません。要はカメラマンが常に立ち位置を移動しながら対象を捉えていることが重要なのです。しかも単純に直線移動やパンではなく(つまり2次元平面上の移動)、回り込みしている事(3次元空間内の移動)によってリアリティが飛躍的にアップします。

 もう少し単純で分かり易い例があるので紹介しておきます。↓こちらの動画では、部屋の中央から極めて抽象的なオブジェクトが音楽にシンクロして生成されていきます。その1分間、カメラは停止することなく、オブジェクトを中心にゆっくりと揺れている。この僅かな回り込みだけで、そこにそれが在るように感じられる。ちなみに、床に幾つかある白いレンガのようなものは、カメラのトラッキングが容易くなるようマーキング目的で置かれているのではないかと。


One Minute Soundsculpture from Daniel Franke on Vimeo.

 本作ではCGカットの多くにこれらマッチムーブが使われていました。近年邦画でも頻繁に見かけるようになりましたが、ただその物量、使用されるシチュエーションの複雑さに圧倒的な差がある。それを支えているのはその分野における優れた人的リソースと、そこに注げる資本力なのですが、実に羨ましい限りです。

 そんな『トランスフォーマー』、オリジナルアニメも観た事が無ければ、子供玩具から派生したロボット物だということを公開前にようやく知ったばかり、果たしてどのように鑑賞すればよいのか態度を決めかねていたのですが、主人公が憧れの女の子を車に同乗させる場面で、カーズの「ドライブ」、続けてマービン・ゲイの「セクシャル・フィーリング」があからさまに流れる辺り、これら序盤におけるあまりにもベタな笑い、どうやら神妙に身構える必要は無いらしい…。
 となれば本作において注目すべきは実写に見事はめ込まれたCGによるロボットのバトルシーンのみであるのは改めて言うまでもありません。果たしてハリウッド発の実写ロボット映画は、日本の誇るロボットアニメの驚異になり得るのか、関心はそれ以外に無い。そしてそこに注視していくと、バトル描写を成功させ、映画製作サイドが勝利を得る為には、ある犠牲を必要としたということが分かってくるのです。
 さて、本作においてどうしても納得の行かないところが1箇所、それは事態を解決する鍵となる黒立方体を軍に引き渡すために、どうして秘密基地最寄りの市街地へ向かわなければならなかったのか、その理由です。本来、被害を回避すべき場所、つまり「市街地」にどうして悪意を持つ未知の破壊力を持った巨大ロボット達を気前よく引き連れて行けるのか。本来なら被害を最小限に抑える為、砂漠や郊外の僻地でバトルすべきではないか(上にエンベッドした動画のように、カメラトラッキングするには、ポイントとなるビル群の存在する空間は都合良い、というテクニカルな理由は横に置くとします)。

 先日も書いた通り、日本のロボットアニメは出来るだけ製作費を抑える為、逆にバトル描写の様式美を進化させてきたのですが、それは戦闘が展開する舞台を市街地以外に置くことを可能にしました。つまり宇宙や荒野のような、背景を描くのに比較的苦労しない場所で戦闘を繰り広げても、十分に迫力ある演出を編み出したのです。劇場映画や十分に予算の確保された作品でもなければ、おいそれと戦闘の舞台を市街地に指定することはリスクが大き過ぎる。単純な話、TVアニメで市街戦を描くのが困難なのは、そこで戦闘すれば破壊されるのはロボットだけでは済まないからです。対して本作では、異常にも守るべき者たちの日常に戦闘を持ち込むのですが、その理由はその画作りから導き出せるのではないか。
 まずカメラが互いに格闘するロボット同士に寄り過ぎている事が挙げられます。ロボットのデザインが異様なほど細かなパーツで組み上げられていることも災いして、寄りで見せられてもそこで何が起こっているのか、非常に分かり辛い。例えばリーダー格の味方ロボットがハイウェイのジャンクションで敵ロボットにナイフを突き立てる場面、そこを日本ロボットアニメの文脈で置き換えれば、いわゆる「決めポーズ」を引きのカメラで、ある程度の時間見せて説明しているはずです。しかしここではカメラは寄ったまま動き続けていて事の達成感が十分に伝わりません。同様に他の場面でも多くが寄りの画なのですが、それはつまりロボットバトル映画として見た時に、観る側がその都度納得できる演出手段が施されていないということ。つまり「引きの画に耐えられる殺陣(あるいは外連味とか)」が全く導入されていないのです。

 バトル描写において「ため」の価値観のない文化の場合、全体に過度に緊張を強いる描写へ向かうことは必然、それは「何が何だか良く分からない」という状況を生み出してしまうことになるのですが、そういう状況に最適な場所は何を隠そう「市街地」に他なりません。甚大な被害を被る市民の居ないような場所で格闘しても画として十分成立する手法を確立していないのだから、緊迫感は舞台自体がどんどん崩壊する方向で充填されようとします。つまりミサイルや弾丸の立場で物語を見れば、そこには着弾して炸裂する「場所」こそ必要なのだと。恐ろしくも、これこそ主人公達がキューブを街へ持ち込んだ理由なのではないか。例えば序盤においてカタール基地残存部隊を襲う敵ロボットは、砂漠の真ん中で襲撃することも出来たはずなのに、わざわざ寂れた街で戦闘を展開し始めます。ここで砂漠のど真ん中、見渡す限り変化の乏しい場所で火花を散らしても今一つ緊迫感は得られない。戦闘場面をより刺激的にする為、画として適度に破壊される建造物が要求されてしまうのです。ここで甚だしく欠如しているのは、マイケル・ベイ監督の「戦闘」に対するリアリティ。本作において市街地でのバトル描写が、リアルに実在しているよう見えるロボットによって上手く成立しているとすれば、それはそこに居るであろう市民の犠牲によってようやく成り立っているはず、犠牲無くして勝利なしという家訓はまさにそこへ適用されてしまっているのです。ジョークとしては、あまり笑えません。
 さて、ここで書き記しておかねばならないのは、今回の感想文が決して「映画内の戦闘で犠牲になった市民に対するその無配慮に抗議する」と言っているわけでは無く「市街戦で犠牲者を出さなくても済むようなロボットバトル描写を編み出そうよ」という事。単純な話、もう一度観たいと思わせるような印象に残るカットがあったかと問い返してみれば、それは難しい。子供の頃に観た日本のロボットアニメで今でも印象に残るバトル描写のカットのほとんどが市街地以外であることを思い出してみれば、ロボットバトルは、洗練されればやがてその犠牲となる市街を必要としなくなるに違いないのです。

 以上、いろいろ屁理屈をこねて感想を書き連ねて来ましたが、ここまでの長い前置きを犠牲にして本作で指摘すべき最も重要な点はただ一つ、マイケル・ベイ監督は特に「オタク」ではなかったということです。

ひと言メモ

監督:マイケル・ベイ(2007年/アメリカ/145分)ー鑑賞日:2007/08/13ー

■それにしても本作のバトルシーンで幾度か使われるスローモーションは笑えます。例えば路上で座り込んでいる女性を回避して、彼女を飛び越えるロボットのスローモーション。なんでそれをわざわざスローモーションにするんでしょうか。当然ここにスローモーションの意味は無くて、よくありがちな、スローモーションにしたら何となく意味あり気に見えてくる、という類のものなのでしょう。
■さてさて、少しフォローしておくと、本作はあくまで「笑い」がベースになっています。そこであえて印象に残った場面は、レノックス大尉がバイクを駆って敵ロボットの足下に滑り込むところ。彼が果敢にも敵ロボットの「股間」を狙い撃ちするカットは笑えますが、シーケンスは一番カッコ良かったのではないでしょうか。
■在る程度のオタク要素は必要と思うのです。エンタメ映画では。
■追記:「One Minute Soundsculpture」埋め込み(2010/02/21)。