連載第14回
2007年10月1日
子供の領分

 上映が始まってからかなり時間も経過し、いよいよこれがクライマックスかと思われた、所謂ヤシマ作戦における決戦の場面。その作戦内容がどのようなものなのか、全く知識の無い僕は、果たして日本全土から電力をかき集めてきて彼等が一体どうするつもりなのか、おそらく過激で爽快、壮麗で美麗なバトル描写が展開されるに違いないと期待に胸膨らませていたのですが、しかし、臨戦態勢に付いたエヴァンゲリオンの姿態を見て唖然としました。

山の頂で、銃を構え狙撃兵の如くじっと寝そべっている…なんだそれは。

 ロボットという概念がいつ誕生したのかは知らないのですが、現実の世界で本当にロボットという物が存在するのだと認識したのは自動車組立工場において火花を散らしながらボディを溶接したりする、頭や体の無い、ただ腕のようなものが大きな音で唸りながら動いている光景を、小学生の社会科の授業でNHKの教育テレビ番組を通して見た時でした。とても人間には真似の出来ない、単調ではありながらも高い精度が要求される工程を、人には真似できないスピードで効率良く繰り返し運動するためだけに生まれてきたその奇形な姿を見た時、軽くショックを受けたことを憶えています。その後10数年してオモチャとしてのロボット、たとえばソニーのAIBOなどが登場するようになったのですが、今後、さらなる人手不足が避けられない日本において、さらに進歩したロボット技術が投入される分野は介護業界と言われていたりします。しかし友達のようなロボットの出現など夢のまた夢、あまつさえ将来近隣アジア諸国などから多く流入するであろう労働力に、物言わぬロボットが太刀打ち出来るとも思えません。

 そんな夢の無い現実から逃避して映画やアニメの世界へ目を移せば、そこでロボットはどのような要請によって生まれることになったのか。実際のところ、物心ついた頃にはすでにSF映画のアンドロイドやサイボーグ物、またロボット・アニメなんてものはテレビの中では日常的な存在でしたから、やはりその起源についてなど考えた事も無いのですが、個人的にSF映画の中でその存在意義のターニング・ポイントになったのは『エイリアン2』です。序盤に少しだけ姿をみせる黄色に塗装された武骨なパワード・スーツは、重量貨物運搬に活用するという「生産的な目的」の為に造られたものではあったのですが、当然それが伏線であることは分かり切った事、じらしにじらしてほとんど記憶から消えて無くなりかけていたクライマックスでようやくにしてリプリー自ら操縦しエイリアンと格闘する場面はいやがうえにも盛り上がりました。しかしこれは兵器ではなく、ましてや自律しているわけでもなく、ここでのパワード・スーツの役割とはツールとして身体機能を拡張することにあり、人の営みを補助するということで現実界におけるロボットの存在と変わらないのです。『ベクシル』でも戦闘用ロボットは登場しますが、作戦の中心となって全体を指揮するのは主人公はじめとする人間であり、画面に映るのは彼らが装着するパワード・スーツでした。さて、アニメに注目すれば操縦するにも手間のかかりそうなロボットなんぞをわざわざ製造することになった要因として最も納得できた設定は、ガンダムにおけるミノフスキー粒子の存在です。レーダーを無効化するという特性をもった粒子が、その気になれば核弾頭をミサイルに搭載して敵陣地に撃ち込めばそれで済んでしまう宇宙空間での戦闘(つまり遠隔操作による安全な戦い)を不可能にしてしまったというのは、実際には互いにあいまみえて戦闘するなど、ゲリラ戦でもなければもはや現実にはあり得ないと分かっていた、子供にも納得できる設定だったのです。

 しかし、どのような理由でロボットが製造されることになったにせよ、実写につけアニメにつけロボットを長時間リアルに描写するのは骨の折れる仕事であることには違いありません。そこでハリウッド映画は潤沢な資金を元にCGへシフトしていくのですが、では日本のアニメはどうなったのか。予算も限られ、スケジュールも苛酷なテレビ放送向けアニメ製作の現場では、可能な限りセル画枚数を抑える必要があります。つまり接近戦を想定したロボット兵器ではあるけれど、そこで実際に敵ロボットと手足組み合って格闘するのは画を描く作業として非常にキツい。しかしバトル・アクションでの爽快感、高揚感を削ぐわけにはいかない。となれば「少ない動きでバッチリ決める」という演出に向かうことは必然。ロボットでありながら皮肉にも重火器を装備し、人間のそれと同様、できる限り距離を保って戦闘する場面が多くなります。しかしそのような縛りの中、日本のロボット・アニメにおけるバトル描写は後退するのではなく、時代劇における殺陣の如く洗練され、どんどんクオリティアップして行ったのです。往々にしてロボットがロボットを倒す時、最も見栄えのするポーズのままスローモーションを用いたりなどして、動作の様式美は長年に渡って開発・熟成され、十分観る者から快楽を引き出す「決め」のカッコ良さを持つに至りました。

 そして『ダイハード4.0』でも指摘した通り、本作においても、互いに安全な距離を保ったまま戦闘するロボットを接続するのは銃やミサイルの役目。つまり機械同士のバトルをさらに盛り上げる、いや、戦闘場面において主役メカの動きよりも直接的に訴求してくる本当の主役は、ここでもそれら重火器の最終的に行き着く状態、つまり「爆発」なのです。

 本作で描かれるいくつかのバトル場面では実際、冷静に観れば滑稽なほどメカは動きません(何せあの敵方の非生物的デザインを鑑みれば)。しかしそれを補って余りある程、爆発の炎、ミサイルの軌跡、飛び散る火花、噴煙、銃口からほとばしる閃光が、まるで生命を宿しているが如く過激に動き回るのです。それらは溜める時は溜め、そこで十分な破壊力を蓄えて、放たれる時はミリ秒単位で瞬時に移動する。ヤシマ作戦においてあっけに取られた狙撃兵としてのエヴァの姿態、その目的を悟られぬよう使徒を撹乱させる為に砲台から放たれる弾幕の振る舞いは並々ならぬ高揚感をもたらし名脇役として恥じぬ「演技」を見せます。その犠牲の後、満を持して標的に向かって解き放たれる鋭い閃光は、それ自体が、まぎれもなくその瞬間、その戦闘空間において主人公であり、与えられた役目を見事完遂するのです。

ひと言メモ

監督:摩砂雪/鶴巻和哉(2007年/日本/96分)ー鑑賞日:2007/09/01ー

■当日、上映開始1時間以上前に並んだのですが、それはもう想像以上の混み具合でした。まさか今回のリメイクが世間にこれほど注目されているとは露知らず、読みの甘さを思い知らされたのですが、果たして一体この作品の何処に多くの若者を惹き付ける魅力があるのか…いや、もしかしたら単にメディアに煽られて興味本位で観に来ているだけなのかもしれない、とも思ったのだけれど、しかし、その短絡的な予測は見事に覆されました。本編上映が終わりエンドロールが流れ、意表を突いた「予告編」のコメントが響き渡った瞬間、劇場は一瞬沈黙した後、ドッと沸き返るような歓声と拍手に覆われたのです。場内の観客が一体となって大きく手を打ち鳴らしている、僕は再びあっけに取られ、もちろんその共同体と共鳴する事は出来なかったのですが、逆に所謂エヴァ文脈で考えれば、その閉ざされた空間の中で主人公の置かれた状況に最もシンクロしていたのは、僕の方かもしれないな、なんて思ったりしたのです。
■でもホントに「エヴァ現象」ってスルーしてたなあ。今も当時に何が沸き起こっていたのかまるで把握してなくて、スッポリ抜け落ちたままでいます。とは言え、今更その穴を埋めるつもりもないのですが。