ここのところめっきり食欲が衰退したものの、腹が減れば一人前に「グググ~」と大きな音をさせるところは若い頃から変わってないので、劇場へ出向く前には少なくとも上映時間は持ちこたえるように軽く腹ごしらえをしておくのですが、もちろん本作の鑑賞前にもきちんと食事を取っておいたにもかかわらず、予想外に映画鑑賞中やたら腹が減ってしまい非常に困りました。それが主人公の食事しているシーンに誘導されているのは明らか、単純に、その彼の摂る食事がとても美味しそうに見えたのです。別に豪勢なメニューでもない、社員寮の食堂で提供される素朴な食事にもかかわらずです。ご飯、みそ汁、主菜に卵…。そんなありふれた内容の食事を食卓へ運び、一人箸でつまんで口へ運ぶ。その単調かつ万人に日常的であるはずの運動を、退屈と感じることなく、むしろ得も言われぬ何かを感じながら見入ってしまう。
一般的に映画で描かれる食事の場面は一家団欒の時であったり、親しい友人や恋人を交えたものであったりすることが多いのだけれど、ここでの食事は主人公をカメラの中心に据えて淡々とした、まるでコミュニケーションを欠いたものになっています(周りに他の社員もいるのだけれど、彼は全く孤立している)。通常、劇中における食事の持つ役割が、物語の展開を促すことになるセリフが発せられるきっかけ作りの場であったり、登場人物のキャラクター設定や人間関係を短時間で効率的に知らしめることに活用されたりすることが多いのですが、ではここでの食事は何の目的を持って描かれているのかと言えば、それはただただ単に、時間が堆積されていく様子なのです。さらにこの食事を摂るという行為を過剰とも言えるほど、幾度も反復して映し出しているところも、時間の堆積が日々確実に進行していく様子を強調している。およそ映像作品においてミニマル的手法を用いる場合、それは同様にミニマルな構造を持つ音楽と併せて表現されることが多いように思います。クラブで流れるようなループ・ミュージックや、古くは祭りばやしも同様、1小節ほどの短いフレーズを周期的に繰り返すことによって気分が高揚してくるのは多くの人も経験していることでしょう。特別、実験的な映像作品でもない本作が、このようなミニマルな手法を用いていたのは新鮮だったのですが、しかしここでの反復は、気分を高揚させ、注意力を長時間維持させるにはその単位時間が長すぎるのです。加えて、音楽など皆無です。
世間では、コミュニケーションを欠いた食事など食事ではない、それはただエサを喰っているのだ、という意見もあります。それにもかかわらず、前述したように主人公の摂る食事は美味しく見え、その執拗に繰り返される反復にいらだちも起きないばかりか、その味に誘われて腹が鳴りそうになる始末。その理由はどこに在るのか。
それは同様に主人公の繰り返す、労働の描写にあるのではないか。
炎を扱う工場での労働もまた、ここでは当たり前のように日常的に繰り返されるイベント、そこで流される汗と肉体的疲労を伴う運動の後に差し出される食事は、その労働に対するこの上ない唯一の報奨です。全く華やかさは無いが、仕事を終えた後の食事には確かな魅力がある。友人や家族を交え、会話を楽しみながら食事を摂ることが、もしそのコミュニケーションを重視するあまり、食する行為自体が繋ぎとしての役割しか持たない状況になるとすれば、それこそむしろ「餌」の時間なのかもしれません。どちらにせよ、腹に収まってしまえば同じことです。
さて、憎しみが愛情の持つ奇形態の一つとするならば、この状況下で適度な距離を保ちつつ熟成されて行く先が、翻って愛に変形したとしても特に不思議ではありません。そこで必要なのは時間というファクターであり、時間操作の容易な映画という表現方法ではあっても、ここでは省略を使わず堆積させるために執拗な反復を用いることは必要だったのです。その時間の堆積してゆく様こそ、本作で観るべき部分なのではないか。ちなみに時間が「流れる」とは書かずに「堆積していく」と書いているのは、質的変化に重要なものはえてして流れ去るのではなく、その場に密に充填されている事が多いように思えたからです。単に印象の話に過ぎませんが。
ひと言メモ
監督:小林政広(2007年/日本/102分)ー鑑賞日:2008/01/03ー
■人は気付かないうちに恋に落ち、そして知らず知らずのうちに誰かを愛してしまうこともあるでしょう。が、人を愛する以前に、やっぱり誰でも必ず腹は減る。
■エンディングのテーマ曲が意表を突いてました。喩えて言うなら松田優作主演TVドラマ『探偵物語』の最終回の吉田拓郎みたいな違和感、というか。
■帰宅後、またメシを喰ってしまいました。
2008-08-12 > 映画百本