連載第20回
2008年8月15日
腹は減るのだよ

 このドキュメンタリー映画を観たのはもう3年前の2005年のことなのですが、90年代ころから聞かれるようになった自然回帰ブームのようなもの、例えばスローライフとかスローフードとか、あるいは都会のビジネスマンが余暇を利用して農業を経験する週末ファーマーのような動きが想起させる食料にまつわる生産と消費の「緩やかなイメージ」が根底から覆されたインパクトのあるものでした。僕個人、数年前から不定期に発生していた体調不良に悩んでいて、何となく(というか身体の欲望に従って)食事の内容を組み直したところ、数週間で改善されたという体験もあり、また福岡伸一氏の著書に書かれてあった、どうして生物は食事をする必要があるのかというミクロ的な視点と併せて改めて認識したのは、食べるということは生き物にとって避けて通れない戦いなのだ、ということです。

 戦い…と表現して誤解されると困るのですが、舞台となる岩手県早池峰山の麓にあるタイマグラ村で自給自足の生活を営んでいる向田マサヨおばあちゃんは常に笑顔を絶やさない、それはそれは高感度100%の可愛いおばあちゃんです。がしかし、自らが生きるために必要とする食料生産の現場、つまり彼等開拓農家の仕事は、自分の命を維持することに直結しているという意味において戦いそのものなのです。
 その言葉を連想させたのが、おばあちゃんの食欲をして「まるで身体に爆弾を詰め込んでいるよう」とナレーションが表現するところ。食料を生産するという苛酷な肉体労働に備えて、彼女は身体にどんどん食料を装填する。その量たるや、おばあちゃんに比べればまだまだ若い男性である監督も全く呆れてしまうほど、というのです。

 最近になってようやく、世間でも当たり前のように聞かれるようになった自給率の問題などを話題にすると、よく「自給自足」という言葉が相手から出てくるのですが、果たして自給自足の何たるかを知れば、その言葉を発した誰もその状態に逆戻りしようとは思わないはず。労働とその対価が今や、まるで割に合わない一次産業に身を置こうという、家業が農家であっても後を継ごうと考える若者など居ないのも頷けます。その親ですら息子がサラリーマンになることを望むほどなのですから、現場での労働はスローなんて甘いものではありません。
 食料を生産し、その場で消費する。姿形を変え、日々絶え間なく身体の中をただ循環していく食料の様を見ていると、ただ単調な繰り返しになる毎日に何か彩りを加えたくなる衝動を抑えきれなくなるのも容易に想像出来ます。それが一次産業からの脱出を志向し、日本の産業構造をシフトさせることの動機の一つにはなったと思うのですが、直接自分の摂る食料を生産する労働から開放され、文化的な何かを得るための他の労働に費やされる、以前と比較すれば小量化されたエネルギーは、増え続ける食料の消費量とのバランスを明らかに欠いています。その差分はもちろん、搾取によって得られているのですが、搾取する力を担保してきた様々な後ろ盾が、もはや日本には無くなってきているのではないか。そして第2・第3次産業に携わる者と、直接食料の生産に携わる者との優位性の逆転が、未来において起る可能性はあるのだろうか…などと考えたりするのです。

ひと言メモ

監督:澄川嘉彦(2004年/日本/110分)ー鑑賞日:2005/04/24ー

■途中でマサヨさんの夫である久米蔵さんが死去するのですが、その死に方がまたスゴイ。ある日の朝、いつものように彼は便所に行って用をたし、帰ってきてから「もうこれで便所へ行くのも最後だな」と悟り、その翌日に亡くなったそうな。これも以前どこかで書いたのですが、特に目立つ病気もない老人が「あ、明日あたりに迎えが来るな」と分かる死に方というのに、いつも憧れてしまいます。
■マサヨおばあちゃんの隣に引っ越してきた、若い夫婦とのコミュニケーションも描かれてます。そこで冬の時期に仕込む、おばちゃんオリジナルの味噌作りが伝授されてゆきます。