連載第21回
2008年8月24日
あえて吹き替え版

 子供の頃、1973年に制作されたチャールトン・ヘストン主演の近未来SF映画『ソイレント・グリーン』のテレビ放映を観たのですが、主人公の友人である老人が、とある施設にて、かつて地球上に存在した緑豊かな自然の映像を眺めながら、人生最後の瞬間を迎えようとしている場面が(物語のオチよりも)とりわけ強く印象に残っています。子供心にも、いくら死に際が近づいているとは言え、大自然が映し出されたスクリーンを眺めながら昇天するという行為には「なんて感傷的なんだ」と感じたものです。当時暮らしていた田舎は、地方にありがちな中途半端な開発資本が入り込んできたところではあったものの、まだ家の前には田んぼが広がり、メダカもいればタガメもいるというような、スケールは小さいけれど、子供の視座からすればそこそこに自然が保存されていと思える場所でしたから、そのような風景をスクリーンで観ながら死ぬ行為の有り難みが全く理解出来なかったというのも無理はありません。今でも個人的にネイチャー系映像アーカイブを好んで鑑賞することは無いけれど、しかし、あれから30年以上も経って東京を居場所にするなど自分を取り巻く環境も豹変すると、もし痛みもなく意識も白濁せず、そしてあの老人のように看取ってくれる家族や友人が居ない状況で死を迎えることになるのなら、最後の要望として「めいいっぱいスケールのデッカい大自然の映像アーカイブを1本よろしく」と注文することも在り得るな、と思うようになりました。

 極めてインドアな僕にとって、残りの人生をやり過ごしていく間に本作に収められている風景を目の当たりにする機会なぞまったく無いし、それどころか、僕が地表から消えるより先に姿を消してしまう動植物がほとんどだろうと考えると、「今のうちに」出来るだけ多くの生態系を映像として記録しておくことは人類にとって責務(失われる生態系を保護するには、行動を起こすのが遅きに逸した感がするので、差し当たって記録することの方が優先度高いのでは)。直接目にし触れることは叶わないとしても、地球という青い球体の表面で起きている生き物同士の複雑に絡み合う摩訶不思議を捉えた映像は、それだけで十分楽しめるエンターテインメントなのです。

 そんな映像エンターテインメントを鑑賞するにあたって今回、人生初の「日本語吹き替え版」を選択しました。何よりも映像が物を言う作品なのですから、同録された環境音声以外のあらゆる添加物は無用。公開時にはもちろん字幕版もあったけれど、折角の映像に挿入される字幕はノイズでしかないと考え、あえて吹き替え版を選んだ次第です。映像に没入してしまえば、スピーカーから流れてくる日本語の解説も気になりませんし、個人的にはむしろベルリン・フィルハーモニーの音楽すら邪魔でした(ほとんど意識しなかったけれど)。
 映像が持つインパクトはとても強い。それが記録を目的にしたものであれば、文章で記したものよりも人に与える影響は大きい。これらの映像アーカイブは、僕が人生最後の時を迎える頃には今よりさらに強い意味を持つでしょうが、それよりもっと先の50年後や100年後、いや、さらに数千年後には、より貴重で大きな、宇宙的価値を持つことになるのでしょう。

ひと言メモ

監督:アラステア・フォザーギル/マーク・リンフィールド(2007年/ドイツ・イギリス/98分)ー鑑賞日:2008/05/04ー

■ちなみに日本語吹き替え版のナレーションは渡辺謙。
■音声解説も音楽も一切ナシ、という試みは、やはり劇場公開を目的にしていると土台無理な話ですかね。映像に説得力があるなら、誰も「音楽が無い!」って怒り出すことは無いと思うんですけどね。
■それでも、冒頭に説明される「地球の自転軸が太陽に対して23.5度傾いていることの重要性」は、知っておいて無駄ではありません。