連載第23回
2008年11月6日
いつか見たアレ

 実は今世紀に入ってからふと、何故人々は物語をこうも渇望しているのか、ということが気になり始めました。映画はもちろんテレビドラマや小説、ゲームの類など、あらゆるジャンルの表現にはその骨格に物語が在り、それが与える発見の喜びやカタルシスを求めて、消費者はお金の使い道を考えているように思えます。さらに物語はそれ自体には時間軸を持っていない商品、例えば自動車やらグルメやらにも積極的に導入されていきました。すでに食傷気味にもかかわらず、未だマーケティング方面の記事などに「物を売るにはストーリーが必要です」「この商品の一連広告にはストーリーが潜ませてあるのです」などという広報担当のコメントを見かけると失笑すると同時に、人々に宿る「物語依存症」はなかなか根深いと思ったりするのです。先の米大統領選挙にもストーリー戦略は積極的に活用されていたのでしょう。個人的には既に、例えば小説なら、明らかにエンターテインメント作品を除いて、骨格としてのストーリー展開の有無を求めなくなりました(所謂何も起きない小説という類など)。技巧的に起承転結や構成がしっかりしている、なんていうことは、自分の中では特に感心したり褒めたりするような事では無くなってしまいました。

 ほとんどの映画も当然、その中心にある物語から映像が発生しているのですが、そのスタイルとは対極のものとして一般にイメージされるのがドキュメンタリーではないでしょうか。社会問題を主題として、それを中心に据え、その周囲に関わっている人々からのコメントを積み重ね、普段見ている物とは別の様相を立ち現せたり、あるいはまるで常識とは相いれない価値観をもった個人の背中をカメラで徹底的に追跡したりとか、一般的ハリウッド映画にあるような、時間軸に沿ったストーリーの見せ方とは異なる構造を持つ、一見物語の不在しているようなドキュメンタリーはしかし、その映像を観る側がそこにちりばめられた各要素の小さな繋がりを発見し、自ら「物語を構築していくもの」であると言えます。取り扱う主題がどのようなものにせよ、観る側がそこに何かしらの物語を発見できた時、観賞後の印象はより強いものになるはずです。

 では観る側が自ら物語を発見していく能力に欠けている場合もそれなりに楽しめるようにしなくてはならない場合はどうすればよいのか。逆に言えば、例えば政治的に扇動する類のものとか、監督が自ら強く主張したい物語がある作品は、作中にどれくらい監督自身が姿を見せるか、あるいはその存在を匂わせるかの割合を観ることで計ることができるのかもしれない、単純な話、積極的に物語の流れを作っている場面も見せてしまえば良い。対象をあるがままに捉えていると思われがちなドキュメンタリーではあるものの、そこには明確な監督の意思があるのは当たり前、作品のテイストは表象へのその意思のバイアスのかかり具合に拠るのです。それをうまく言い換えて近年流行ったのが「○○をプロデュースする」という言い回し。本作を見始めてさほど時間も経たないうちに思い出したのは、いつか見たアレ、そう某民放局で日曜の夜に放送されていた「○○少年」とかいう番組。T部長が売れない芸人や素人相手にアレコレ無理難題を課し、事の成り行きを背後からカメラが追うというスタイルが、ここに見出せるのです。それは「何も無いところから物語を見出すことが苦手」とする人々を気楽に楽しませる為の、娯楽ドキュメンタリー物の手法として完成されているのでしょう。つまりはこの手法を使ったドキュメンタリーも、一つ上のレイヤーから監督を含めて眺めると「メイキング物」の亜種として捉えることが出来る。個人的にメイキングは好きなので、そのような視座で鑑賞すると違和感は緩和されます。

 しかし観賞後の満足度は、同じ手法を使っていても作品によって違いが出てくるようです。一言でプロデュースと言っても、「素材」の秘めている才能を引き出そうとするタイプや、逆に何ら才能も持ち合わせてない凡人に自分がそうしたいと願う欲望を詰め込んで行くタイプなどがあったり、つまりはプロデュースする側の態度が作品を決定づける一つのポイントになったりします。例えば素材が明らかに自分より非力である場合(売れない芸人とか素人とか)、プロデュースする側は格段に物語作りも容易。ここに提供される童貞とはまさに現代の恋愛至上主義社会の底辺に住まう弱者、好きなようにプロデュースするには、実に扱いやすい素材です。とは言え、本作の「プロデューサー」である松江監督は積極的関与の匂いは漂わせるものの、さほど画面に登場するわけではありません。むしろこの手の手法で知れていて、始終自ら露出するのはマイケル・ムーアでしょうが、近年彼が主題として選んだ対象は、明らかに自分よりも強い権力を持った個人、ないし巨大な組織だったりするのだけれど、それでも全体としてエンターテインメントにうまく仕上げていたり、内容に賛否両論あろうとも確実に大きな収益を上げているのは流石。もしかして何もかもスケールの違い、なのでしょうか。体格もかなり違うようですし。

 余談ですが、どんな強い演出意思をもったプロデューサーにも太刀打ち出来ない「運命」というものをカメラに捉えたドキュメンタリーを数年前に鑑賞しました。それはテリー・ギリアムが製作半ばにして挫折した映画『ドン・キホーテを殺した男』のメイキング(?)である『ロスト・イン・ラ・マンチャ』という作品。コントロール不可能な「運命」相手に全編通して抱腹絶倒の笑いに見舞われるその映画は、狡猾に物語を仕込もうとしている作品などより、いわく言い難い壮大な物語を発見することが可能、プロデューサーのさらに上位にある「何か」の存在に、ただ圧倒されるのみです。

ひと言メモ

監督:松江哲明(2006-2007年/日本/85分)ー鑑賞日:2008/02/16ー

■一言ドキュメンタリーと言っても千差万別、主題や手法を挙げれば、フィクションの映画くらい多彩かもしれません。
■あ、でも鑑賞時は久々にTVバラエティを見たという感じで、ゲラゲラ笑いました。
■しかし皮肉にも一番印象に残っているのは、後半部に登場するアイドルオタクが学生時に制作した映画の場面だったりします。