連載第29回
2009年1月24日
歩き続けるテンポ

 気が付くと意外にも北野武監督作品はさほど観ていなくて、これまで映画館で鑑賞したものと言えば『あの夏、いちばん静かな海。』『HANA−BI』の2本しかなく、それ以外にテレビ放映されていたのを見かけたのは『その男、凶暴につき』『キッズ・リターン』そして『BROTHER』の3本だけ(しかも、そのどれもが放送途中から)という、つまり久々に本作を映画館で観たからと言って何を語る資格も有していないわけですが、まあ、映画百本とは主に自分を語る恥ずかしい場所なので、開き直ってこのまま筆を進めることにします。

 もしこの映画を北野武監督作と知らずに観たとしても、おそらく彼の手によるものであることは推測出来るのではないでしょうか(本人や柳憂怜が出演していることを横に置いても)。これまで数本しか観ていなくても、ここにあるテンポ感はかつてどこかの作品でも感じたことがあって、僕個人の経験から言えばそれは『HANA−BI』にあったものと同じリズムを刻んでいるように思えます。具体的には【エピソード>絵画のカット>エピソード】という短いパターンが、幾度も同じようなテンポ感で繰り返されるところ。あるシーンの途中に、ぽつん、と正面から絵画をとらえた画が挿入される、これはもし一度だけなら連続体の中に置かれた小休止のようなものになるかもしれないのですが、それが幾度か繰り返されると、その画の挿入は拍子をとるタイミング、あるいはクリックのアクセントのような効果を生みだすように感じられます。かなり昔、何かのインタビューで北野武が映画制作の中で「編集作業」が一番好きと答えていたのを読んだことがあるのですが、なるほど彼の編集が生み出すものは、音楽で言えばメロディというよりもテンポであると。もちろん、プロモーション・ビデオのような激しいカットチェンジがあるわけでもなくて、それをテンポと呼ぶにはかなり緩慢な流れではあるのですが、そのゆっくりとした拍子の刻みは本作を通底し北野色を特徴付けていると感じられます。

 メロディよりもテンポが強い(テンポじゃなくて「リズム」じゃないのか、とも言えますが、リズムの語感が何となくエネルギッシュなので、ここではテンポとします)。本作を眺めていて感じるのは、確かに物語(=メロディ)は流れているのですが、それがテンポ感よりは前に出ていないというところ。ちょっと抽象的なのでもう少し噛み砕くと、仮にもし、劇場の音響設備が突然故障し、まったく無音の状態に陥ったものの、映写技師がそれに気付かず上映が延々最後まで音ナシのまま続いてしまったとしても、何ら不都合は生じないのではないか。ここで語られるエピソードの連なりは、画の動きを観ていれば容易に察しのつくくらい説明的です。例えば主人公の子供時代に電車を止めてしまうエピソード。教室の中からガラス越しに外を見る教師の画に、電車が急停車する音が重なります。観る側はそこで変わり者である主人公が電車を止めてしまったのだということに気付くのですが、その状況を目視している教師のカットで終わると思いきや、何と実際に電車が止まっている場面を映すのです。つまり先のブレーキによる音響効果は、仮に無かったとしてもこの場面は成立してしまう。これは決して物語が弱いと言っているのではなくて、ただ他の要素がテンポに従属しているスタイルを取っているということなのでしょう。
 例えば「死」。決して唐突に現れるでもなく、在る程度観る側に予測のつく形でそれは訪れるのですが、驚くべきことに、ここで幾度となく消費される死は物語に全く影響を与えません。在りがちな話であれば、親しい人の死が主人公の内面に大きな影響を及ぼし、それが後に続く展開に作用していく、そういうきっかけ作りとしての死がここには無いのです。まがりなりにも主人公は芸術家なのですから、死が何かしらの契機を担うというのが、世間が一般に認識している「物語のカタチ」なのでしょうが、畳みかけるように次々と舞い込んでくる死は、確かに主人公は意識している様子が窺えるものの、彼の成長には何ら貢献しません。むしろ死は通奏低音のように映画を支え、119分を区切るテンポ感を強調すべく貢献しているのです。個人的にこれは痛快な取り扱いでした。余談ですが、逆にあれだけ過激な芸を「実演」しておきながら、死には至ることのない電撃ネットワークには笑いました。

 芸術と金を巡る主題はここにも現れます。昨年、個人的にまさにそれと同じ、芸術と金の関連についてアレコレ思い巡らせた事があって、そこでは主に「お金の心配することなく創作活動に打ち込めるようにパトロンが欲しい」という無邪気な願望に解決を見出すべく幾つかの本を読んだのですが、結果として導かれた結論は、芸術は決して高尚なものでも神聖なものでもなく、またアート市場が付けている価値もあくまで(いくらか時代の気分の作用している)相対的なものでしかない、そこかしこに見ることの出来る芸術作品も、自分が特別関心が無いのなら総じて「ゴミ」でしかない、というものでした。こんな事を書いたら、その方面でしっかりと勉学に励んでいる学生から強烈に叱られてしまいそうですが、今はこれで納得出来ています。文字通り、実際には両面に印刷のほどこされた紙切れでしかないお金によって、そこに在るのかもしれない何かを数値化してようやく保たれる威厳や価値(主人公はそれを赤いベレー帽に託しているとも)など誤謬、それに全く無関心な者にとってはゴミとまでは言わないまでも、空気のように気にもならない存在です。
 作品の価値を算定するのに、表向き必要だった名前や顔を失い、果てには文字通りただのゴミを差し出して置いて、そこに弐拾万円という値札を貼り付ける。それがかつて娘が身を売って得た金を借りた金額の十倍だというのは…いや、それが芸術と金を巡る本質かもしれません。では、ありとあらゆる芸術などゴミ屑でしかないと考えているのかといえば、実はその逆だったりします。つまりは芸術への関わり方、人とそれを虚構で繋ぐのではなく、経済不況でまるでお金への信頼が失われている今でこそ「作る側」に身を置くことが一番幸せでいられると確信しているのです。それは近年、何を買ってもろくに満足できた事が無いという実感に基づいていて、だからこそ今はゴミを作ることに、差し当たり出せるだけのお金をかける方が、断然有意義であると思っています。とは言え、以上はあくまで個人的な今の気分の話、またゴミを書いてしまいました…。

ひと言メモ

監督:北野武(2008年/日本/119分)ー鑑賞日:2009/01/12ー

■樋口可南子が空き缶を蹴るところ、全くのアドリブでしかも1テイクOKだったそうですね。
■実は映画において「テンポ感」を発見したのは今回が初めてなのです。今までそんな事考えたこともありませんでした。なるほどー、と思いましたよ。