近年のうだるような夏の暑さに慣れてしまった反動なのか、冬の寒さにはめっきり弱くなりました。遠赤外線ヒーターの効果空しく冷え込んだアパートの一室で身体を小さく震わせていたある日、ふと思い立って映画館まで暖を取りに出かけたのは、自宅部屋の何倍もあろうかという空間を擁する映画館ではあってもそこは商業施設、ここよりは断然に暖かいに違いないと思ったからです。劇場に到着してすぐ所定の場所を確保、その温もった空間は単に暖房設備によるものだけでなく、おそらくは多くの席を埋めている観客達が放つものも多少影響しているに違い在りません。果たして上映が始まったのですが、スクリーンの左端からやってきた自動車から降り立った主人公の足下には一面を覆い尽くす真っ白な雪、まだかすかに震えの残っていた僕の身体は、主人公が膝までずぶ濡れになりながら、雪に覆われた大地を切り裂く川を歩いて横断する場面で再び大きく震え上がることになりました。はて、映画の中の季節に合わせて、上映する季節も決まったりするものなのでしょうか。身体の震えが落ち着くまで、しばらく時間がかかりました。
その雪に覆われた全く人気の無い場所に、まるで不自然なかたちで放置され錆びついたバスは、かつて誰かがそこで生活していたことをうかがわせるのですが、では何故その小さな空間の前主人はそこから消え去ったのか。主人公を巡る物語と並行しながら付きまとうその疑問の答えは、おそらく主人公自身が発見することになるのであろうと期待させるのですが、しかし同時に、不吉な予感も抱かずにはいられません。まず何よりも、放棄されて運動することを止めたバスの存在(まるでオカルト映画に出てくる幽霊屋敷のようです)、そして主人公のエピソードを彼の妹が、第三者によるモノローグで補強しているという状況。明らかにそれは、現在における兄の永遠の不在を示唆するものです。上映時間2時間28分と長尺の本作が、その長さを感じさせなかったのは、終始その不吉な予感がもたらす緊張感に支配されていたからであり、旅の最終地点であるバスでの生活を軸に、その地に至るまでの数年間を各エピソード毎に挿入する物語構成は、やがて訪れる結論を可能な限り引き伸ばす為(実際、バスでの生活はそれだけを物語るには短期間、エピソードにも乏しいのです)、僕もまたそれを期待していたに違い在りません。
世を捨ててみると決めた主人公が、紙幣を燃やすシーンに衝撃を受けました。紙幣を燃やす、実際にはなかなか見ることのない状況です(昨年観た『ダークナイト』ではジョーカーが山積みになった紙幣に火を放つ場面がありましたか)。紙幣は人間の社会において、本来ならば互いに繋がることのないような物質同士を繋げる役目を果たす、つまり「交換」を潤滑に促す機能を持っているのですが、本質は人間がその価値を信用することによってようやく意味を持つただの虚構です。もちろん、彼が踏み込んだ大地においてそれは全く機能を果たさない故、その人間が発明した交換のルールを捨て去るのは一向に構わないのですが、ここで明らかになるのは、自然は自然のルールに則って、そこに立ち入った者に対し強く「交換」を要求するということ。つまり、主人公がその大地から何かを得ようとするのなら、自然は当たり前にその対価を要求する。果たして、主人公は大地から略奪を繰り返すだけ、衰弱しきった状況で遭遇した熊にシカトされるに至っては、もはや食料として我が身を呈するにも値しない、彼には大地に対し何ら与えるものが無いということが露呈してしまうのです。
さらにもう一つ人間の発明したルール、対象に向かって「正しい名前」を与え、それが人の望むよう発動するのを促す、これも立場を替えて見ればまるで意味のない呪文のようなもの。毒草に向かってそうあるべき名前を与えたところで、それが期待するような組成に変化するわけではありません。もし仮に本が人を救うことがあるとすれば、それは人間のルールが適用される場所に限られるのかもしれません。
実のところ、思わず美しいと溜息が出てしまうような場所は、常に人間の介入を拒絶する空間でもある。あるいは常にそれ相応の対価としての生命を要求してくるとも。人は叡知によって自然を制御し、時に切り刻んできた(=開発)のではなく、ただ単に、自分達のルールが適用されない相手から逃げ続けているだけなのです。
ところで、本作に映し出される風景で美しいと印象に残ったカットはありませんでした。これは撮影方法が云々と言っているわけではなくて、特にアラスカの場面においては、あくまで人を拒絶するかのように荒々しく屹立した風景の在り方が、極当たり前に見えるという意味です。例えばここに頻繁に現れる水、主に川として常に運動している水は人間を大きく威嚇します。鉄砲水、川下りの場面、主人公をアラスカに閉じこめてしまう川とか。
もし世界の真理を追求するために孤独を必要とするのなら、現代ではむしろ都会へ向かう方が効率的、彼の蹉跌は物質の交換をも否定してしまったことにあるのですが、では彼は、ただの略奪者であり、与える人ではなかったのか。いや、本来帰属すべき場所においてならば彼は、若さ故に放つ何かを、他者に与えられる唯一のものを持っていたはず。確かに、彼が放浪していた2年間に出会った人々は、その彼が放つ何かに対し、それ相応の対価を与えていたのです。与えたら消えてしまう無償の何かではなく(むしろ与えて消えてしまうのはお金の方だったりします)、人と人の交わりの中に現れる、互いに交換できる何かを。
ひと言メモ
監督:ショーン・ペン(2007年/アメリカ/148分)ー鑑賞日:2009/01/18ー
■中盤あたりに出てきた、ギターを弾くヒッピーの女の子がやたら素敵で思わず見とれていたのですが、なんと彼女は『パニック・ルーム』でJ・フォスターと共演していた女の子、クリステン・スチュワートのその後でした。驚いた。
■なんで、あんな所にバスがあるのか。
■どうやって、あのバスはあんな所まで移動して来たのか。
2009-01-22 > 映画百本