連載第41回
2009年4月18日
小さな生き物

 何処かにチャンスでも転がっていないかとカメラを持って外出しても、未だ対象を見る目の洗練されていない僕は、丸一日歩き回ってたったの一度もシャッターを押さずに帰宅してしまうことが多く、写真好きの人達のサイトに掲載されているような印象に残るショットというものは、どうしたらそこで出会った瞬間にそれがシャッターを押すに値するものと気付くのだろうか(あるいは画になるように撮ってしまう腕とか)、ということを考えたりするのですが、そんな未熟な僕でも街をぶらぶら歩いていて無性にシャッターを押したくなる場面というのがあって、ちょっと思い返してみると、その状況に共通してある対象というのがどういうわけか老人なのです。
 若くてピチピチした女性を撮りたくなるというのなら、とりあえず男性諸氏には分かり易くて共感も得られそうなのですが、街行く若い女性の魅力に惹かれ、ぼんやり見つめてしまうことはあるとしても、シャッターを押したくなる気分にはなりません。そもそも見知らぬ女性を撮りたいとは思いませんし、そこで実際に動いている状態を目で追って受けた好印象が、果たして写真に焼き付けてみるとまるでその時の魅力が消え失せていてガッカリした、というのは誰でも経験しているはず。動いて魅力のある人と、静止した画で魅力の出る人の違いは明らかに在ります。

 ではなぜ、老人なのか。それは老人が醸し出しているものが何となく画になるというものではなくて、たぶん推測するに、猫好きの人達がやたら猫を撮りたがる気分に近いのではないか。つまり少々強引に解釈するなら、老人はすでに人間とは別の小さくて可愛い生き物に変身してしまっていると。その魅力は歳を重ね、背中が丸まり、どんどん小さくなるにつれて増していくようです。
 例えば週末の買い出しで商店街をぶらついている最中、買い物袋を片手に通りを二人手を繋いでゆっくりゆっくり歩いている仲睦まじい老夫婦を見ると、これがまたとても和むのです。ヤングで綺麗なお嬢さんを見るよりも遥かに和む。わざわざ買い出しに出ているということは、きっと彼等は今二人暮らしに違いなく、そんな二人にも離れた所に息子やら娘は居るのだろうかと思ったり、あるいはまた、そんな齢になっても「ふたりが暮らした」という事実自体が愛くるしいものに感じられたり。そんな二人に出くわすと思わず「写真撮らせてもらってもいいですか?」と声をかけたくなるのですが、臆病なのでまだ実行に移した事はありません。イキナリ声をかけて、気を動転させてもいけませんし。

 しかし長く生きれば生きるほど、必然として、二人で共に行動していた事はやがて一人でこなさなくてはならなくなる。通りを一人で歩く老人が、同じ小さな生き物でありながらも何故か寂しい印象を与えるのはどういうわけか。猫ならば、一匹で道端に寝ころんでいても然程悲しそうには見えないけれど(むしろ可愛さが倍増したりも)、一人の老人は被写体として扱いづらいものがありはしないか。モノクロで捕えればそこに、積み重なった人生の重み、なんていうものを醸し出すことは可能でも、笑顔でも無ければ幸福な感じを出すのは難しいような気もします。

 本作の主人公であるニキフォルは、生まれつきの言語障害によるコミュニケーション不全や、他人の意見を聞かない頑固な性格も災いして生涯孤独であったという点で「可愛い」という印象は希薄です。しかし、スクリーンの中で動く彼の姿は、独りでありながらも何故か画になってしまう不思議。その理由をアレコレ考えていたのですが、もしかしたらそれは「一つの事に集中している小さな姿」にあるのではないか。彼は、作品を食料などへ交換する為、必要として絵を描いてきたのだけれど、例えば他人のアトリエを陣取って黙々と絵を描いている様子などは、ただそれだけで、見ていて飽きないのです。仮に同じような情景を芸術家志望の若者に置き換えた場合を想像して比較してみると、果たしてそこに出てくる違いは「可愛さ」となる。独りの小さな老人がその身体全体から可愛さを発散させるのは、何かに夢中になって動作を繰り返している様、なのです。僕の日常の身近な例で言えば、毎朝近所の道路を小さな背中を丸めて黙々と掃除しているお婆ちゃんがやたら可愛く感じられるのも、同じ理由なのでしょう。
 多くの場合、所謂天才などと呼ばれる人間については、傍らでその天才を見つめる凡庸の者によって語られる事が多く、本作もまた例外ではありません(なにせニキフォル本人は自ら「物語る」能力も持ち合わせていませんし)。ニキフォルの描く絵がアール・ブリュットとして注目されたのは、単に時代の要請にタイミングよく合致したものなのか、それともやはり芸術であるのか、まるで僕には判断がつかないのですが、どういうわけかニキフォルの傍らを離れることが出来なくなった凡庸の沈黙を捕えた映像、独りの小さな生き物の繰り返す所作に見とれているというよりも、またその生き物の描く絵の本質を見抜いているというよりも、実は己の無能さを冷静に客観視できている人間の持つ苦悩の現れた、その凡庸の眼差しこそ、実はこの映画を貫いて最も強い印象を放っている画に他なりません。

ひと言メモ

監督:クシシュトフ・クラウゼ(2004年/ポーランド/100分)ー鑑賞日:2007/03/24ー

■つまり本作の主人公はニキフォルではなく、その凡庸の男であるとも言えるのですが、幾つかの映画祭で主演女優賞、また主演男優賞を共に獲得出来ているのはその証左でしょう。というのも、男であるニキフォルを演じているのは、実は女性なのです。
■決して派手ではなく、実に地味な画作りなのですが、雪で真っ白な背景を横切っていく赤い車など、画になる場面の多い作品です。地域や気候、あるいは太陽の光線の具合の影響も大きいのかも。
■在り来たりな台詞だけれど「色を決める時は、色に聞け」というのは、やっぱりイイですね。
■作中、その舞台がポーランドであるというキャプションは出てこないのですが、序盤に現れる赤地に白文字の横断幕を見ると、そこが社会主義国家(当時)らしいことには気付きます。
■可愛い小さな生き物と書きましたが、当然ながら老人は人生の先輩として敬いましょう。もちろん人間ですし、いろんな性格もあって、実際に付き合って全てが分け隔てなく可愛いとは言いませんが、今回肝要なのは内面ではなく「ひたすら繰り返す動作・行為」にあるということです。
■生涯に描いた作品は4万点におよぶとか。それだけ残すには、やはりひたすらに動作を繰り返すしかないでしょう。