連載第40回
2009年3月22日
染まるよ

 物語らしい物語の無い小説、というのは今ではもう珍しくも無いのですが、では映画の方面ではどうなのだろうか…というのは僕も知りたいくらいで、まるで状況が分からないのだけれど、ではこの映画を誰かに紹介するに当たってその物語をかいつまんで説明しようと思うと、それはかなり難しい、いや、別に複雑に絡み合った時空を行き交うワケでもなければ、不条理な幻想世界が描かれているワケでもなく、ここには単に語るべきものが「何もない」だけ、そんな本作の要点を他者に伝達すべくここに感想文として書き記そうとするのですから、どうアプローチしようかと書きあぐねているわけです。もちろん、女一人と男三人(うち二人は15歳)がアパートの一室で数時間を過ごすのですから、彼等は動くし、しゃべるし、ある程度の人間関係の変化も起きるのですが、やはりそこには物語と呼べるほどの展開はなく、とどのつまりは「特に伝え語るべきものは、ここには無い」ということになるのです。

 それでは、映画の背後にあらかじめ言語で構築された揺るぎない物語があってこそ、映画はより優れたものになるのか、伝えるべき価値が在るのかと問われれば、必ずしもそうではないと思っています。語るべき物語(=言葉に置き換え易い展開)があってこそ良しとするなら、映画を介して得るよりも、例えば原作本など、既に文章に置き換えられているものを読む方が、読者側のイマジネーションの喚起力にもよるけれど、より深くその世界観に没入できるはず。その観点で映画にいくらか優れている部分があるとすれば、およそ2時間もあれば適度に要約された物語を「読み終えることができる」ということくらい、忙しい現代人にとっては実に効率的です。
 土台として頑丈な物語が据えられている場合、例えば以前感想に書いた『嫌われ松子の一生』は、だからこそあれだけ無邪気に映像で遊ぶことが可能だったわけです。視覚的にどれだけ逸脱しても、その背景に流れる物語はそれに引きずられて支離滅裂に堕するようなことは決して無い。その映画を観た人が他者にストーリー展開を伝えようとした時、おそらく視覚的に遊んでいた部分を言葉に置き換えようとする人など居ないはずで、それはもちろん「お遊び」の部分は実際には何ら物語に影響していないからであり、誰が語っても物語は然程の違いも見せず言葉に置き換えられるでしょう。間違えても「ラストで松子は若返ったんだよ」と解釈する人など居ないのです。

 ところで、本作で語るべき物語が立ち現れなかったのは、彼等が集う場所の所為なのかもしれません。友人同士である二人の子供が留守番をしているところへ、それぞれも赤の他人同士である男と女が介入して長々と居座ってしまうその場所が、人間4人をカメラで捕えるにはいささか窮屈なアパートであるという物理的な制約が、せっかく訪れた非日常を、語るに値するレベルにまでは引き上げることが出来なかった、とも言えるのではないか。実際、カメラは2~3の例外(非常にゆっくりしたズームなど)を除き、室内では1カット毎、基本的に固定カメラで全く動くことがありません。対して時折挿入される回想シーンでは、屋外で自由に動き回っているのが印象的ですが、やはりただの回想に留まっています。カメラが動けないのなら、唯一期待できるのはそこで交わされる会話なのですが、それも物語を生成するにはまるで役立ってはおらず、ただ戯れに空気を漂うばかり、もっぱら貢献していると言えば、そこで費やされる時間をサイレントにならぬよう埋めていることくらいでしょうか。いや、否定的に言っているのではなく、如何に物語に貢献するかという狭量な立場で言えば確かに無益な存在なのですが、時間を無駄なく埋めているという意味では問題なく機能、僕は決して退屈はしなかったのです。個人的にはビートルズの場面、誰が見ても分かるのにおせっかいにも「ビートルズ」を言葉にするのはセンスが無いと一瞬シラケたのですが、続けて最後に女の口から出る台詞が楽しくてお気に入りのカットになりました。

 さて、この映画が語るべき物語を有していないにも関わらずここまで長々と書いてきたのは、目に見えるような物語(=言葉で説明できる物語)といった類のものの外側にあるまた別のヴィジョン、視覚的な刺激が誘発する、いわばパラレルワールドのような別世界を現出させる瞬間があったことを強調する為です。これこそ映画を「読む」のではなく、映画館で「観る」ことの醍醐味であるはず。

 終盤、登場人物の一人の身体的特徴について、ある指摘がなされます。そこでその人物の出生に関わるところに会話は展開するのですが、それを契機にして、スクリーン上にそれまで全く気にもしていなかった、カメラが捕えるあらゆる物体の持つ色彩が展開し始めたのです。女が次々に口にする菓子、彼等の衣服、室内に置かれた家具類、窓からの風景、遠景に見える山々や湖、壁に掛けられた絵画、それら一切が本来備えているはずの色彩が、突然ビビッドに目に飛込んできた。彼等を取り巻く世界が、そして我々が生きている世界が如何に鮮やかな色彩に溢れているか、僕はエンドロールが訪れるまで感動と共に、スクリーンに映し出されるあらゆる物の細部に見入ってしまいました。驚くなかれ、この映画はしかし、全編「モノクロ」なのです。

ひと言メモ

監督:フェルナンド・エインビッケ(2004年/メキシコ/90分)ー鑑賞日:2006/09/02ー

■僕はよほどトイレを我慢している場合以外は、本編が終わってもエンドロールを最後までぼんやり眺めている派なのですが、本作ではそこに「小津安二郎」と「ジム・ジャームッシュ」の名前を発見することが出来ました。実はこの映画を観たのは2006年なんだけれど、ハッキリと憶えています。メキシコ出身の、これまでは主に音楽ビデオを監督していたというフェルナンド・エインビッケが、この二人の監督からどういう影響を受けたのか、何かしらの引用に溢れているのか、実は現時点でまだ小津安二郎作品は一作も観た事がない僕は何も推測することが出来ません…すまん。ジム・ジャームッシュ作品はたぶん3作くらいは観たかと…ごめん。
■コーラの泡って、あんな簡単に止められるのか!
■おそらく、僕が今回体験したような覚醒は、映画館で観たから起り得たものだと言えます。この感想文で興味をもたれて、例えばDVDなどで鑑賞したとしても、同様の追体験が可能とは思えません。何故そうなってしまうのか不思議なんですけど。大抵DVDなどを介して小さい画面で映画を見た場合は、物語を「読む」だけに留まる傾向がありますね。
■今回でようやくモノクロ映画感想文三部作終了。それぞれの感想文タイトルは音楽のタイトルから拝借してますが、今回の「染まるよ」は最近お気に入りのチャットモンチー3rdアルバムに収録されてます。「モノクロームエフェクト」はパフューム、「禁じられた色彩」は坂本龍一&デヴィッド・シルビアン。