連載第43回
2009年4月29日
映画の何を観ている?

 映画が始まってしばらくスクリーン上で展開している動きを追い続けている間、どういうわけか非常に息苦しい感じを受けたことがまず印象に残っているのですが、その原因は主人公始めその愛人や妻などの行動が、序盤のかなり長い時間ずっと室内で行われていたこと、そこにはまるで外に通じる「窓」が無かったこと(単に見過ごしていたとしても、窓としての機能を果たしていなかったのではないか)が考えられ、もしこのまま物語が延々と室内で続いたら、体調が悪くなって最後まで観ていられないかもしれないとも思った程で、もちろん密室劇なんてありふれていますし、これまでも観た事があるのだろうけれど、ではどうして本作の前半でこのような息苦しさが起きたのか、とにかく主人公夫妻が実家に向かう為、馬車で移動する場面でようやくカメラは屋外へ、外気が画面に取り込まれ、そこで僕は深呼吸をしてなんとか体調を取り戻しました。
 さらに見続けていると今度は主人公の男がどうやって生計を立てているのか不思議になり、そんな些末な事も一度心にひっかかるとずっと引きずるもので、というのも見た目にもここで描かれているのは貴族たち上流社会に属する者たちの、市井の者共とは遥かにかけ離れた毎日、お金のことなど気にすることなく呑気に恋愛ごっこ(本人等は本気なのだが)している様子を見せつけられても…と思いつつ、いや、だからこそ余計に生業や収入源のことなどが気になるのだとも言えるのだけれど、さて、一体僕は何をブツブツとつぶやき始めてしまったのでしょうか…。

 聞く所によれば、音楽的には重厚荘厳なオペラも、そこで歌われている物語を歌詞から抜き出してみると実に詰まらない内容だったりするとか。この映画もスクリーン上で語られているものを逐次「言葉」に置き換えていくと、そこに現れてくるのは恥ずかしい程に詰まらないものだったりします。いや、実際に僕はここで描かれる一人の男の、あまりの愚直さゆえに際立つ滑稽さにあっけにとられてしまったのですが、もう少し温情を持って拡大解釈し、本作にその時代のある階級が被る、不可避な社会的変動に翻弄される人々云々を見出すとしても、それなら漱石の『それから』とか大宰の『斜陽』、あるいは非情に身勝手な男が主人公の鴎外『舞姫』などを読んだ方が断然面白いに違い在りません。さて、いつになく映画の中で語られていた物語に突っ込んでいるのはどういうわけでしょうか…。

 何となく映画感想文を書いている理由は以前どこかの感想文に書きましたが、そもそも映画を鑑賞して受けた印象をチマチマと言葉に置き換えていることに何の意味があるのだろうかと、もちろんこれまでも幾度か考えたこともあったけれど、今回は割と考え込んでしまったりして、液晶モニタを腕組み眺めながら、通勤電車に揺られながら、仕事しながら食事しながらあれこれ思い巡らせていたら、さらに「そもそも映画の何を観ているのだろう?」という、気が付けばこれまで考えた事も無かったようなことに思い当たり、そこで「いや、無心にただ見続けることに何か意味があるのだ」なんてロマンチックなことは全く考えてなくて、その理由はまだ明らかにならないのだけれど、とりあえずこれだけは言えるのです「好きな画と、何とも思わない画がある」と。
 何て無責任な、とは思うけれど、今回の感想文の冒頭で体調のことを書き、続けて主人公の生業の謎について書いているのはとどのつまり、それ以外のところに目が行き届かなかったということに他ならないのではないか。全てはバランスだとすれば、本作は物語の強度が画の主張より遥かに高いのです。もしかしたら僕は映画に「そこに見えていないものが見えてくる瞬間」を待ちかまえて臨んでいるのかもしれません。小説ではなく、何もかも見せている映画なのに(!)です。序盤の息の詰まるような場面の連続も、撮り方によればまるでそんなことを感じさせない事も、むしろじっと魅入らせることも出来るはず。そして、それを可能にするのは、もちろん画そのものの質感であったり、カット割りによる動作の繋げ方だったり、構図や演出、さらにライトの当て方だったりするのかもしれず、またそれらに共振する度合いは個人の審美眼に左右されるのでしょうが、その方面での知識や語彙に乏しい僕は、おそらくそれらの奇跡的組み合わせによって現出した何かを他者に上手く伝えられるよう再び言葉へ戻すことは、たぶんこれからも出来ないのでしょう。

 さて、鑑賞中は別に上述したようなことを考えながらスクリーンを眺めていたわけではないのですが、映画の中で物語が終わり、最後の最後で舞台を後にする女の姿が停止した時、それまで本編では遂に見つけられなかった美しさを発見、思わず心の中で「それだ!その画があれば、その美しさで全編捕えていたら!」と叫んでいました。まるで漱石の『草枕』ですが、しかし、その停止した画の中に女の表情は捕えられていません。何せこちらに背を向けていましたから。画家はついに人の心情へ眼を向けたけれど、とりあえずここで僕は画の質感と構図だけに惹かれました。非人情でしょうか。

ひと言メモ

監督:ルキーノ・ヴィスコンティ(1976年/イタリア・フランス/129分)ー鑑賞日:2009/03/14ー

■そうなんですよねえ。今回の感想文を書いていて、ハッキリと自分の中に「好きな画・嫌いな画」があることを確認しました。好きな画だと、おそらく物語なんてツマらなくてもずっと眺めていられます。