連載第52回
2009年6月20日
あんなフリ、こんなフリ

 一般にブレイクの契機となったとされる、木村カエラのラジオでオンエアされた「ポリリズム」を、その時偶然耳にした事がきっかけで僕もPerfumeを知る事になったのですが、大抵の場合曲の後半に配置されるであろう、例のポリポリ言ってる盛り上がりパートが、曲はじまって早々と展開されるところに構成の新鮮さを感じ、さて、そんな歌をケロケロ歌っているのは一体どんな3人なのだろうとシングルを買いにCDショップへ出かけジャケットを手にしてみたところ、正直なところ見た目あまりパッとしないなあと感じたのが第一印象でした。そんなこんなで彼女らのビジュアルとはまるで関係ないところで、単純にポリポリとケロケロ歌っている変則パートを楽しんでいた頃、また偶然にYouTubeのオススメ動画としてトップページに掲載されていた、何処かのインストアイベントで歌って踊っている彼女らをぼんやり見つめているうち、その曲自体にはさほど魅力は無かったのだけれど、何かしらビビッと来るものが。当然僕も男子ですから、3人のうち自分の好みは誰になるんだろうとよこしまな気持ちで眺めていたのですが、当時のYouTubeはまだ高画質対応ではなく、というかそれ以前にアップされていた動画の質も相当悪い状態だったので、こちらが識別出来るのは彼女らのルックスではなく踊る様だけ、つまりそのアイドルっぽいと言えばそうとも言えるかなり奇妙な振付けを繰り出している3人のうち、髪の毛の長い人、それが後にかしゆかと呼ばれていることが判明するのだけれど、その人のフリが他の2人に比べてとても活き活きしており、その快活さに知らず知らず見入っている自分に気付いたのです。

 そんなかしゆかのフリの魅力はどこにあるのか。MIKIKO考案によるフリ自体は3人とも同じで別に個性に合わせ振り分けられているわけでもないのに、かしゆかのフリはより強く印象に残り、目を惹くものがある。ぼんやりそんな不思議を感じつつ繰り返し眺めているうち、気付いてしまえば当たり前の理由が見えてきました。彼女のフリの魅力はフリの流れの「止め」にあったのです。
 全編通して展開される微妙に変なフリを魅力あるものにしているのは、その振付けの奇抜なデザイン以上に、それを際立たせる為の流れの止め方、その止めが3人の中で最も正確に出来ているのがかしゆか、彼女の肢体が描く曲線はその正確な止めにより緩急のメリハリが強調されステージ上で特に映えることになる。つまり動かす時は流れるように滑らかに素早く、そして止めるべき箇所ではカッチリと止めることにより、それが楽曲とシンクした時はより一層、見る者に心地良さとなって伝達するのです。

 四肢の流れと止めが、果たして大きな魅力となる。今さらそんな…という発見を確認すべく、普段の生活にはまるで縁の無い「バレエ」というジャンルを扱ったこのドキュメンタリー映画を観てみることにしたのですが、1909年に生まれアート界にも大きな影響を与えたらしいバレエ・リュスと呼ばれる伝説のバレエ団が(プルースト『失われた時を求めて』にも記述があります)、どのようにして興行として成功し、そして挫折していったかという歴史を紹介している本作は、芸術とビジネスとの関わり合い方についても大変興味深いものになっています(それは意外に泥臭いものだったりもする)。なにせ古い団体の話ですし、実際には期待したようなダンスそのものの動く映像は少なかったのだけれど、舞台意匠、加えて衣装にも凝りに凝った多くのステージ写真を眺めているうちに、それまでまるで関心の無かったバレエという表現の持つ、いかに肉体の運動を美しく見せているかというところに注意が向きました。そして改めて滑らかな動きを綺麗に止める為に必要なのは、何よりも「筋力」であるということに気付いた時、そこからさらに考えが広がっていったのです。

 先にかしゆかのフリが3人の中で一番気持ち良いと書いた際、「それは単にかしゆかの見た目が好みなのではないか?」という反論も自分に与えてみました。運動には直接関係ないところを隠蔽し、話をでっち上げているのではないか。確かにその可能性も否定は出来ないと思い、では見た目に可愛い人が踊っている映像をひたすら凝視してみることにしました。そこで参照するのはイギリス在住のオタク少女Beckiiことレベッカちゃんです。

 さすがに今、世間をブイブイ言わせているらしいだけあって見た目もフリもとても可愛いし、思わず繰り返し見てしまうのは確かなのですが、では仮に彼女をPerfumeの中に紛れ込ませた場合、そのフリは興行に耐え得るレベルかと言えば、答えが否であることは明らかです。ピンで見た場合には許容される、そのルックスも相まって全く気にならない素人なりの「止め」の曖昧さは、舞台ステージという場所ではまるで役に立たないことが瞬時に判明するでしょう。しかし、ここで更なる疑問が起ります。では何故、そんなBeckiiのフリが、ピンであることが条件であるとは言え、動画サイト内で人気を博し成立し得るのだろうかと(彼女は主にオタク層で受けているのでは?という指摘はひとまず横に置きます)。

 そんな事を考えながら再びバレエのステージに目を向けると、確実な止めを実現する為に鍛え上げられた筋力が、ただ四肢の流れを止めるだけではなく、もう一つの運動を実現する為に使われていることに気付きました。それは「垂直方向への運動」です。たぶん僕の知らないところでバレエにも多くの流派があって、動き方の特徴は団体により様々なのでしょうが、思い返せば確かにバレエは回転や横移動だけではなく垂直方向への動き、つまり「より高い所」への運動が要求されています。いつだったか昔テレビで見た熊川哲也も、より高い所へ向かう運動を繰り返し練習していましたし、多くのバレリーナも自身の跳躍力で叶わない場面では男子の助けを借りて「より高い所」を目指します。そんな垂直方向への希求は何故起るのだろうかとさらに思い巡らせた時、それは我々観客の固定された視座の制約によるものであると気付きました。バレエが行われているステージを注視する観客は、あらかじめ指定された座席に終始固定される。角度も距離も、決して良い条件で無い場合の方が多いであろう劇場空間で、より多くの観客へ華やかな印象を与えるには、衣装やダンサーの人数や大きな回転運動、大仰で可憐なフリに加えて空間をフルに活用すべく垂直運動も取り入れる、これは必然です。

 転じて、Perfumeに限らず男女アイドル系ユニットのフリが主として活躍する場所はテレビというフレームの枠内にあります。そこではパフォーマンスされる楽曲に合わせ、事前に数台によるカメラのカット割りが決められていることでしょう。それは実際のパフォーマンスを直視することの叶わぬ視聴者が、しかし実際にはライブで見るよりも遥かな自由度を持ってそのビジュアルに迫ることを可能にしています。テレビで見る以外に、これほどアイドルに接近できる機会はまずありません。そしてこの状況では逆に、アイドル達はその場での回転運動や四肢の大仰なフリは許されても、決して垂直方向への運動は要求されることが無い。その運動はカメラ側の追従運動に適さないから、つまり激しく上下に動いてもらっては困るというわけです。もちろん、そんな運動をフリに取り入れられたら、実際に歌っているアイドルも息が切れてしまい困るでしょうし、そもそもそんな運動を実現する為に筋力を付ける意味が分かりません。

 以上をふまえて再びBeckiiちゃんの踊ってみた動画を見ると、そこには確かに1台のカメラによる1カット長回しに収まる範囲での運動しかないことに気付きます(一連のシリーズ中には巧みに2カメ以上駆使したものもありますが)。しかしここで「だからダメなのだ」とは思いません。適材適所とでも言えばよいか、個人的オタク趣味の範疇で自宅の一室で行われるフリの、小ぢんまりしていてもしかし、楽しさが伝播する感じが貴重に思えるのは、「それが好きだから」という動機付けがなされているからでしょう。そしてその運動的・心情的コンパクトさは、現状の動画サイトのフレームサイズ枠内にうまく合致しているのです。思えば本作「バレエ・リュス」も、解散して世界に散らばっていた団員が40年ぶりに再会し、そして口々に苦しい興行ではあったけれど「踊ることが何よりも楽しかった」と振り返るところに感動を覚えたり。好きこそものの上手なれ、と書いてしまうとバレエ団を矮小化してしまうのですが、昔から歌うのが苦手でカラオケが大嫌いというかしゆかのインタビューにも「ダンスがあったから続けてこれた」という他の2人には無いコメントを発見することが出来ます。

ひと言メモ

監督:ダニエル・ゲラー/デイナ・ゴールドファイン(2005年/アメリカ/118分)ー鑑賞日:2008/05/17ー

■ご存知の通りもうテレビを全然見てないので、上で書いたことが全く的外れであることも考えられます。もしかしたらイマドキのアイドルは、ぴょんぴょんと高いところを目指して飛び跳ねているかもしれませんが、まあ、そん時はそん時で。