連載第54回
2010年1月4日
希望のフラットライン

 ルパン三世のTVシリーズ2(いわゆる赤ジャケルパン)の最終話、都心でまさかの戦車発砲という派手なやりとりの後、偽ルパンに逮捕監禁された偽銭形警部が小山田マキに問い掛けた言葉は、当時まだ子供だった僕に強い衝撃を与えました。曰く、昼の騒ぎで何人死んだ?
 派手なアクション映画において市街地での銃撃戦はつきもの。良心的な作品ならその戦闘は善人と悪人だけが対峙する空間に限定され、たとえ弾が逸れてもガラスが割れたり壁に穴が開く程度で一般市民に命中することはありません。そこに細やかながら現実主義が取り入れられると、不運としか言いようの無い人が数名命を落とすことになり、僅かながらもそれは確かな「痛み」を生じさせます。そして次第に戦闘の規模が大きくなるにつれ重火器も強力になるのですが、少人数によるクライム・ムービーや戦争映画を超え、SFや怪獣映画へと扱う虚構がスケールアップするにつれ、それらを包含する空間も拡大し、当然引きとなるカメラが捉えるのはもっぱら高層ビルが倒壊してゆく姿。ところが崩れ去るビルや燃えさかる街を見ても、そこで死に行く人々が無数にいるということにさほど戦慄を覚えず、観客が無痛で居られたのは単純な話、そこに人が居なかった(描かれていなかった)からです。人と人が対峙する中規模の戦闘が行われるアクション映画において爆発に巻き込まれる不運な人々を描写すれば、たとえ映画の中の出来事とは言え、そういうアクション映画を楽しんでいる事自体に多少の罪悪感を覚える人が出てくるかもしれないし、また、巨大な怪獣がビルを破壊する場合はそのスケールの大きさ故、小さな人間をリアルに描くのは非常に困難である(あるいは単純にコストがかかる)というように、その場所で死に行く人を描かないでおく理由(または言い訳)が、これまではあったわけです。
 しかし架空の自然現象を借りて悪人を登場させない本作において、災厄から逃げ惑い、それに巻き込まれる無数の人々はかつてないほど精緻に描かれます。それを可能にする技術がようやく表現意欲に追いついたこともあるけれど、意外なのはその状況を目の当たりにして罪悪感どころか痛みも感じないところ、いや、それは描写が陳腐なのだという訳ではなく、その場にいる人々に一様にして降りかかる巨大なスケールを持った災いがもたらしている圧倒的な「平等」が、そこで死に行く人々が(宗教的に)生まれつき持っていたかもしれない罪や、その場所に居合わせた不運というような些細な条件のバラつきを極限にまでゼロに近づけていることに起因しています。性別や国籍、思想や人種の違いも、さらにまた運・不運も全てフラット化された状況の中で、その地獄絵は単なる一風景になっているのです。しかもそこには「美」さえ見出す事も出来、倒壊する高速道路やビル群が、途中、決して煙で包み覆い隠される事なく、細かく砕け散るガラスの破片が宙を舞い落ちる様まで丹念に描ききっていることに感動すら覚えた程。未だかつて、ここまでガラスの破片を違和感無く追った描写があったでしょうか。もう一つ指摘すれば、それら死に行く均一化された人々はあくまで俯瞰された風景の中に小さく捉えられるだけに留まっていて、カメラは決してわざわざ彼らに近接し恐怖におののいている表情や絶叫を捉えたりはしません。それは既に人々が全てフラット化されてしまった状況であるが故、各個人の心情やそれまでの人生を垣間見せるような描写は必要ないのです。

 そんなカタルシスをもたらす平等なロサンゼルス崩壊の後、物語が自身の要請により再び「歪さ」を取り戻し始めます。人類がほぼ絶滅すると分かっている中、未来に僅かな希望を繋げる事が何を差し置いてでも優先すべきものであるのは分かり切った事で、一刻を争う状況の中、当然その選別にあやかれる人間は、健全な精神を健全な肉体の内に持っている人に絞られるはずなのですが、しかしそんな魅力を微塵も持ち合わせていないにもかかわらず、高額な乗船チケットを買うことの出来る富裕層が稀少な幸運を手に入れる事が出来てしまうというのは「生命のバトンタッチ」が求められている状況下極めて不条理で非合理的。 では何故そんな歪(いびつ)が混入してくるのか。予め選別された優良で価値ある人々だけに絞れば、その人格的優良さからして端から互いに協調し合い、突発的事態以外は人間同士でのトラブルは起きようにありません。人間もまた崩壊する地殻と同様、変化が起きないところにドラマは生じない。娯楽映画としての王道を決して踏み外さないよう心得ているのです。かくして、混入された歪(補足すれば、主人公とその元家族も歪の一要素です)が生き残りを掛けて奔走するこにより、観る側が期待するようなドラマが生まれてくる。それは過去にいくつも作られてきた王道フォーマットを再びなぞるようなもので、まるで目新しさは皆無だけれど、やがて訪れる結末に向かってそこで何が起きているのかを少し上方から俯瞰してみれば、なるほど、彼ら歪な者たちの集団は何もかも失っていく中で、互いにまたフラットな状態に向かっていかざるを得ないことが分かるのです。僅かに生き残った人々に与えられたモノが、限られた空間と食料だけという条件の中において、階級や判断基準の多様性は逆に足枷になるかもしれず、生命を明日に繋げるという単純な一つの目的に向かって生じる行動規範が自ずと絞られていくのは、もちろん、そのメタモルフォーゼこそが物語の外郭を担っているからに他なりません。やがて太陽の光に反射するフラットライン、地表を覆い尽くした海がもたらす穏やかな水平線が象徴的に描かれるのもまた、自明なのです。

ひと言メモ

監督:ローランド・エメリッヒ(2009年/アメリカ/158分)ー鑑賞日:2010/01/01ー

■前半のロサンゼルス崩壊のシーケンスは、脱出にいたるまでのスリルも合わせ見事と思います。この時の崩れ行く風景の丹念な描写がなおざりになっていたら、この映画にはさほど価値が見出せないというか…天変地異こそが見所ですし。カルデラの大噴火も期待以上のスケールで爽快でした。
■エメリッヒ監督には、このままディザスター映画を取り続けて欲しいですねえ。例えば『ID4』で負けたエイリアン達が、リベンジしに来襲する続編とか面白いと思うんですけど。ダメですか。