連載第4回
2022年1月1日
町の風景がすっかり変わってしまった

ミキ春です。

21年の最後にこんな文章を書くことはどうかとも考えたのですが、やはりずっと頭の中で思い詰めていたことなので記しておきます。一昨年春ごろから始まったコロナ禍による混乱は現在の日本の危機管理能力の脆弱性をとことん曝け出しました。

週末に食材の買い出しに訪れる商店街の通りを歩くと、小さな個人経営のお店のシャッターが下ろされ、閉店の挨拶文が書かれた張り紙が貼られている。この2年足らずの間で、そんな風景をどれだけ見て来た事か。とある貸し店舗は、最初のお店が閉じた後に別の店子が入ったのに、1年も持たずに閉店してしまいました。大手コンビニさえも退いた町ビルはテナント募集の張り紙を出しているけれど、一向に新しいお店が入りそうな気配はありません。

かつて足繁く通った劇場の年長スタッフもいつの間にか居なくなってしまい、代わりに若い世代のスタッフが頑張っている。もちろん若人が頑張っているのは良いことなのですが、いつしか馴染みとなり言葉も交わすような事もあった年長スタッフは一体何処へ行ったのか。実はこのようなケースは自分の狭い行動範囲内でも数多くあって、長期に渡ったコロナ禍において収益の悪化した商業施設ではより給与の安いスタッフへの入れ替えが進んでいるのではないかと訝しんだりします。当然、給与支払いが滞ったり減給があれば生活設計の見直しもせねばならない状況に陥るでしょう。鋭く先を読み、自発的に進路変更したのかもしれません。

21年の最後にこんな文章を書くことはどうかとも考えたのですが、私は日本の将来を悲観しています。大きく毀損した社会に住まう人々は、おそらく今後数十年に渡ってその悪影響を受け続け、再び次の世代にもその後遺症を引き継がせてしまうかもしれません。

だから私は、これを書いている時点、つまり31日の夜に書き始めたものの、疲労で力尽きて寝てしまい、翌朝22年の1日午前中に再び続きを書き始めたのですが、この時点でこの時節にふさわしい定型句など書く気になれません。これっぽっちもめでたくなんかない。しかし私はまだ僅かにではあるけれど、くたばるまでの猶予が与えられているようです。庶民である私一人では何も出来ませんし、大きなチームを組成するようなリーダーシップはもちろん体力や気力、必要な資金も持ち合わせていません。悲しいかな、社会的動物が備えておかねばならない柔軟なコミュニケーション能力さえ不足しています。しかし漠然とした根拠無きものではあるものの「やれるのではないか?」という一縷の希望が感じられるのです。この機を逃すわけにはいきません。私にでもできる、ほんのささやかなこと。

作戦。