連載第32回
2013年5月12日
トウシューズ

 もう昨年秋の話になるのだけれど、それはトーマス・アルフレッドソン監督『裏切りのサーカス』を観た後のことだったので映画百本リストを見ると正確な日付が分かったりします。2012年10月21日のことです。
 休日の午後、下り電車ということもあってかガラガラに空いていたのだけれど、何となくドア入り口にある手すり付近に立ち、映画観賞後に購入したパンフレットをパラパラめくっていたら、視界の奥で何か妙な動きを見せるものに気付きました。ふと見上げるとそれはうら若い女性でした。
 「妙な動き」というのも変ですが、日常的な動作とは異質な動きを見せていればやはり注意がそこへ持っていかれます。とは言え、その女性が何をしているかは手前に男性客が数人腰掛けているその奥に女性が座っているせいで分からなかったのだけれど、幾駅か過ぎてゆくうちに一人二人と客が降車し、ようやく女性の身体全体が見えるようになってその妙な動きの理由が分かりました。縫い物をしていたのです。
 男子・女子が電車の中で時間潰しにしていることと言えば携帯の類のディスプレイを凝視しせっせと指先を滑らせていることくらいなこのご時世、その女性は作業に集中しながらもかすかな笑みを浮かべて肩から両手首を動かし針と糸を操っています。最後にそんな場面を見かけたのは一体いつのことか…と思うほどに珍しい光景を見て、果たしてその女性は何を編んでいるのか、季節柄クリスマスにプレゼントとして大切な人に贈るためのマフラーでも編んでいるのかしら?と思ったのだけれど、そんな柔らかそうなものは見当たりません。しばらく何を手にしているのか判断がつかないまま様子を眺めていると、ようやくその正体が分かりました。トウシューズです。

 合点が行きました。服装はタイトなジーンズにラフなTシャツ(その日は暖かかった)といったカジュアルな格好ではあったけれど、単に電車内で縫い物をしている珍しい人、というだけならこんなにも注意深く観察はしません。とにもかくにもその女性は「美しかった」のです。顔立ちが整っているのは言わずもがな、目を引く身体の線の細さ(そして推定二十歳前と思われる肌の透き通るような白さ)、しかしそのしなやかで折れそうな四肢の中にも1本筋が通ったような強靭さを漂わせ、それらがトウシューズと組み合わさって、彼女が醸し出している非凡な美が身体全身を使うバレエという表現に携わる人間特有のものであることが分かった後もしばらく僕は年甲斐もなくその女性を眺め続けました。いや、見惚れていたというのが正直なところです。
 トウシューズが練習で傷んだから修繕していた、というよりも自分のつま先に合うようにカタチを整えていたのでしょうか?その方面の詳しい事は全く分かりませんが、外野が思い描くだけの華やかさとは別の厳しさもあるだろう世界を生き抜くためのその修繕を、さも楽しそうに行なっていたということも彼女の美しさをより一層引き立たせていたように思います。

 さて、ここで終わるとただのエロオヤジの独白で終わってしまうのですが、今回この雑文を書いておこうと思った理由はもう一つあります。電車内でこのバレリーナを凝視していたのは僕だけではありませんでした。
 ふと見やると、彼女の対面の座席横一例に座っていた全ての男子の視線が皆彼女へ集中、今どきの言葉で言えばガン見していたのです。シリアスな映画を観た後のあまりにもベタな、まるで仕込まれたかのような古くさい邦画喜劇的光景に思わず吹き出しそうになりましたが、明らかに注目を浴びていることを承知しているであろうハズの美しい女性はまるでそんな素振りも見せず縫い物を続け、しばらくした後、目的の駅で電車を降りてゆきました。可憐でした(あるいはこの小悪魔め)。