以前、ラジオに出演していたあるミュージシャンが、仕事で訪れたアフリカについての印象を語っていたのが記憶に残っています。初めて訪れたアフリカは、彼がこれまでイメージしていたものとはまるで違い、そこではライオンの咆哮はおろか、小鳥のさえずりや虫の羽音さえ聴こえない、完全な静寂の支配する世界だったと。ましてや視界の中に動く動物を見つけることさえ困難だったということです。このミュージシャン同様、僕が勝手にイメージしているアフリカの様子とは、草食動物が恐ろしい肉食動物から身を守るため常に周囲を警戒しながら、親子仲睦まじく草木を食べている。そしてその数十メートル離れたところで、今まさに彼らを捕獲せんと身を低くして機会を窺っているチーターなんぞが居たりする‥。そんなダイナミックな生命力あふれる風景だったのですが、どうやらそれは都合の良い空想だったようです。もちろん、常にそういう生存競争が行われているのは確かなのですが、その場面に遭遇するには現地で水辺を中心に形成されているコロニーの場所を的確に見つけ出す能力をもつ優秀なガイドを雇い、そういうドラマに出会う運が必要。そんな条件が揃ってようやく、頭の中でイメージしているアフリカの風景に近づけることが出来るということらしいのです。つまり僕が勝手に都合よく端折っているもの、それは時間と空間の尺度であるらしい…。テレビや映画の中ではその尺度を縮めることによって絶え間なくイベントが繰り広げられ、退屈することはありません。放映・上映時間の制約やその他の意図によってリアルの一側面は常に歪められているのです。
もう一つ面白い話。以前、もうすぐ30歳になろうという青年が僕にこう言いました。「何で魚を獲って食べないんですか?」と。これはある男性が海で遭難して何週間も漂流した後、極度に衰弱しながらも生き長らえ、ようやく発見されて救助されたというニュースが報道されたときの事。僕は彼の顔をまじまじと見つめ、冗談なのか本気で言ったのか確かめようとしました。すると彼はもう一度「海なんだから、魚を獲ればいいじゃないですか」と真面目な表情で言ったのです。なるほど、彼の頭の中では海の至る所に魚が群れをなして泳いでいるようです。だから糸を一本垂らしておけば、何の苦労することもなく食料となる魚を釣り上げられると。そこで僕はやんわりと、海のほとんどの場所に魚なんて居ないよ、と答えたのですが、自分ですらもう十数年海に潜っていませんし、東京生まれ東京育ちの彼がJR山の手線の満員電車のように魚が押し合いへし合いしている海を思い描いているのも仕方無いことかもしれません(まあ、ウヨウヨと魚が泳いでいたところで簡単に捕獲できるはずもありませんが)。さすがに魚屋で売られている切り身の状態で泳いでいるとは彼も考えてはいないようで、これは少し救われたのですが、考えてみれば普段僕等が映像で見る海の中は魚が居て当然、実際は目に見えて動く生き物が居ない場所がほとんどだとしても、そんな映像は編集時にカットされ、お茶の間に流れることは無いのです。つい最近でも、某テレビ番組による納豆にダイエット効果アリという捏造情報を信じて近所のスーパーへ走る人が多かったと聞くに、この手の都合の良く創り出されたイメージというのはメディアから無くなることはないのでしょう。もちろん僕がこれまでにテレビや本から得た便利そうな知識も、実際の現場でどれほど役立つのかなんてわかりません。
ところで、ドキュメンタリー映画というのはその対象をありのままの姿で捕らえ、そのまま観客に差し出すものだと思いがちですが、ここ数年いくつかの作品を鑑賞して知ったのは、たとえドキュメンタリーといえど少なからずそこには監督の意図が反映されているということ。撮影側が出来るだけニュートラルな立ち位置に留まろうとしても、カメラを向けられた対象がその影響を受けないでいられるはずがありませんし、もし長い時間を経て、カメラ側と対象の間に何かしらの信頼関係が築き上げられたとしたら(それは作品を完成させるのに必要とされていても)、対象はすでに影響され、本来の姿が変化してしまったものと考えるべきかもしれないのです。例えば先に触れたアフリカの例と同様、本作においても上映時間の制約によってイベントは絶え間なくスクリーンで展開されるように構成されています(ただしここでは相手は動物ゆえ、カメラに対して愛嬌を振りまくようなことはありませんし、少なくとも極力、カメラ側はその存在を気付かれないようにしているはずです)。この映画の製作には5年を要したらしいのですが、では端折った映像の中にはどんな意図が込められているのか。
もし、北極圏という世界のリアルをそのまま観客に伝えることが映画の主旨とすれば、作品冒頭に映し出された氷点下ー50℃、風速100キロのブリザード、これを上映1時間23分フルに使って延々と画面に流しつづければそれで足るのではないか。それを見た観客のほとんどがこう思うはず「この白い世界は、人の立ち入る場所ではないのだ」と。いつも思うのですが、僕の今生活している住居、本来ならそこにはあと1ヶ月もすればつくしが頭を出したりタンポポが花を咲かせたりしていたはずなのですが、そんな小さな犠牲の上に、このアパートは存在し得ている、つまり何らかの犠牲なくして、人はそこで生活を営むことが出来ないという基本原則、本来在るべき風景の一部を切り取って、初めて人はそこに鼾をかいて寝ていられるというわけです。しかし、本作が白い世界を通して提示するのはさらにスケールアップされた事実、人はそこに住まわずしてグローバルにかの世界に多大なる影響を及ぼし、幾多もの種を絶滅に追い込んでいるという現実です。確かに現在では毛皮目当ての狩猟も禁止され、直接的な犠牲を人はシロクマに強いていないはずなのですが、このまま地球が暖まり続ければ、近いうちに彼らは全て餓死、あるいは溺死で絶滅することになりそうです。だから今あえて惜別の情を込めて、さよならシロクマくん。
ひと言メモ
監督:ティエリー・ラゴベール/ティエリー・ピアンタニダ(2006年/フランス・カナダ/83分)ー鑑賞日:2007/01/08ー
■地球温暖化が本当に進行しているのか否かには関係なく、まるで資源の無い日本は石油&その他に代わる代替エネルギー生産技術開発に注力すべきだと思います。個人的に考える、これからの21世紀の日本を支えるキーワードは「何も無いところから作る」。それが出来れば100年は何とかなる、と。
■かつて地上を支配した恐竜が絶滅して、今後人類を含めたほ乳類が絶滅した後に、何が地球を支配するのか?時間を経てどんどんスケールが小さくなっていくことから見て、来る新たな支配者は「昆虫・虫」の類ですね。その中でもキングはやはり、ゴキブリなんでしょうか。
2007-02-09 > 映画百本