連載第55回
2010年10月2日
小さくて長い穴の救済大作戦

 終始、陰鬱にたちこめた雲がスクリーンを覆い、本来そこに広がりを見せるべき風景を狭く暗く閉ざしている、そういう印象を与えるせいもあり、スクリーンから得られる情報量は極端に少ないようにも感じられ、実際、記憶に今も残っているのを挙げるとすれば、「食料」「父と息子」「銃」「善と悪」くらいのもの、つまり本作は地表が突如として地獄と化したら人間はどう行動するのか、という一種のシミュレーション映画であり、それを検証するのなら状況はシンプルなほど良いのは言うまでもありません。とりわけ強調してリアルに描かれているのは食料問題。それも大局的に見た社会的食料需給の問題ではもはや無くて、明日生きて起きられるための食い物はどこにあるのか?という極限状態が設定されており、個人的に普段から映画での「食事の場面」に興味を持っている者としては、どのような食料をどうやって手に入れ、どういう雰囲気でそれを口にするのかという事には自然と注目してしまうのですが、そういった些細なところに関心のない人も本作を観る際は否応なしにその部分へ注目せざるを得ないはずです。何故ならここでの人間たちは普段まるで意識したことのない状況、自分が食べられてしまうかもしれない立場に置かれるからです。

 視覚的に、男のたくわえた髭や、説明的を省いた台詞の中に繰り返し出てくる「善と悪」という言葉が自ずと彼に基督のイメージを想起させる事になるものの、果たして彼の行いが信ずるに値するのかどうか、その判断の迷いに付き合うことが映画を持続させているとも言えます。しかし彼の中で善と悪を分けている判断の基準が、もちろんまだ小さな息子に言い聞かせる為に単純化しているとは言え、個人的に違和感を持ったのは確かです。すなわち男の中で善い人とは「人を食べない人」であり、悪い人とは「人を食べる人」であると。
 ほとんどの生き物は生きていく為に必要な養分を自ら作り出すことが出来ません。故に他者が予め蓄えている養分を横取りすることによって自分の細胞を日々更新し続けている、それが即ち「生きる」という状態です。福田伸一の著作にもあるよう、様々な養分やエネルギーが、実際には水にも似た不安定で流動的な存在である肉体をようやく満たしてカタチを維持している、そんなイメージを想起するまでもなく、何を食べるかによってその人と成りが判断されるようなものではありません。例えば、菜食主義の立場をとることがより尊い態度である、というのはあくまで印象の話、確かなのは生きる為には何かしらの養分を摂取し、常に身体の中を通過させ続けなければならないという事実であり、実際これまで事故・災難などで過去に生じた数多もの極限状態におけるやむを得ない事例を引き合いに出すまでもなく、そういった状況において修羅場を生き延びた人を即悪しき人と判定するのは、自分をただの生き物として置けば甚だ困難なものになるのです。
 本作においてこのような善悪の判断への懐疑を抱かせる要因になるのが、やはり食事にまつわる場面、男と息子が口にするものは周到に選別されています。清涼飲料、缶詰め、パイナップルにケーキ、言うなれば捕獲した生き物ではなく予め加工されたモノだけを口にしている、設定された状況ではそれはクジに当たったような幸運の連続でしかなく、その立場からカニバリズムを非難しても当然根拠は希薄になります。途中、死んだ虫を食べる場面もあるのですが、人口爆発が起る近い将来、貴重なタンパク源として有望視されている生きた昆虫を発見したものの、それが飛び立つまま捕える事もせずに眺めているのも(もちろんその演出意図は分かるのですが)現実的ではありません。

 実は今年の8月から個人的に注目しているチリ落盤事故、僕が驚いたのは事故後17日も経って尚、そこに規律と統制がとれていた事です。ただの生き物である人間を、ようやく人として区別できる一つの基準にもなる統制の取れた集団行動が、ほとんど絶望的な状況の中どうやって保つことが出来ていたのか。いろいろな要因があるのでしょうが、おそらくそれを可能にしていた事のひとつが、僅かながらも空腹を和らげることの出来る程度に残っていた食料と水であることは間違いないでしょう。まだ生命を繋ぐことが出来る糧が残っていればこそ、無駄に混乱を起こしてエネルギーを浪費するような行動は控えようという気持ちが、33人の仲間のうちに共有出来ていたと。その見方をとると、本作において相対する人間を糧とする集団は、糧を確保し自分の生命を繋ぐという目的において皮肉にも横に統制が取れているとも言え、例えば同じような未来を描いた『ソイレント・グリーン』で、社会がまだ社会として存続可能であったのは、目的達成のために如何に糧を確保するかというところで階級の違いを越えて暗黙の了解が取れていたからだとも言えます。

 男は基督のイメージを纏いつつも、実際に息子に与える言葉は苛酷です。手にした銃はやがて訪れる瞬間の自害の手段として教え、他者は相容れないものとして常に遠ざけるよう教える、神の代役としての姿が次第に薄れて行くなか、息子がひたすらに「仲間との横の繋がり」を求めるのは、それが幸運にも巡り合った糧によってようやく成立しているご都合にも感じたのは確かではあるのだけれど(実はこの文章は書き始めた当初、そういう批判めいた着地をする予定でした)、驚くべき事にこの感想文を書き綴っている今現在進行形において僕の中で起きた変化が文脈を大きく方向転換させつつあります。本来、次の世代を救済すべき神の代役としての男は、その役目を果たす事が出来なかった(せいぜい、銃を授けるだけに留まるのです)。最後まで一貫して青い空と青い海を描く事なく、世界を覆っている灰色の厚い雲を突き抜けて光が差し込むことは無い、つまりビジュアル的にも天上にいるかもしれない存在を、実はこの映画は完全否定しているのです(埋蔵された缶詰めを発見した際、息子が「人々」に対して感謝する場面が印象的です)。これまで、ただ沈黙していたものは、これからも永遠に沈黙したままであると。そこにあるのは、救済は天上からもたらされるのではないかという淡い期待ではなく、同じ地表にある人と人の中に生じるはずであるという意志です。それがどのようにして起るのかと言えば、思うにそれこそが所謂「ラテン系」的な楽観の態度ではないかと、いや最近、差し当たり食べるものがあれば何とかなるのではないかと、割と真面目に(お気楽に?)そう考えているのです。

 700mの地下奥深くに閉じこめられた33人に、幅1mにも満たない穴を通して差し伸べられる手は、天上からではなく地表から降りてくる予定です。彼らが無事に再び光を見たとき、彼らは神に感謝するのか、それともこれまで通信を使って辛うじて繋がっていた人々に感謝するのか、そもそも南半球に位置しているというだけでチリの国民性が「ラテン系」であるのかどうかも知りませんし、慣習上もちろん自然と頭上に向かって祈りと感謝を捧げるポーズを取ってももちろん全然構いません。しかし僕は、それまで置かれていた状況の中で、彼らはまず何よりもずっと傍にいた「仲間たち」を信じていたに違いないと、考えているのです。

ひと言メモ

監督:ジョン・ヒルコート(2009年/アメリカ/112分)ー鑑賞日:2010/10/02ー

■鑑賞中、あの状況の中で息子の顔が始終綺麗に保たれているのに相当違和感を持ってしまい、没入感を妨げていたことが気になりました。ただ終盤、横になった父を見つめる場面でその美しさに思わず「まるで天使のようだ」と感じたのが強く印象に残っています。まるで本当に母親の血を受け継いでいるかのような眼差しにも思えました。
■生来、ペシミストの僕は男の妻が取った判断に共感するところも多いのですが、せいぜい生きている限りはラテン系態度でいるのが良いのではないかと、まだまだ足りない意志の力でそう思うようになっています。アランの『幸福論』じゃないですが。というわけで、全く予想に反してポジティブな感想文になってしまいました。