連載第19回
2021年10月22日
失敗から学ぶ「さよならタッチバー」(たまには褒める)

2021年10月18日(日本時間19日午前2時)でネット配信された1時間のコンパクトなAppleイベントでは「M1 Pro」や「M1 Max」を搭載した新型MacBook Proなどが発表された。それらに関する詳細な検証記事はネットのプロのライターによるものを参照していただき、今回の催しについては簡潔、かつ珍しくAppleを褒めたいと思う。
※スルーになったMac mini等については気が向いたら後日書く。

さよならTouch Bar

尊大なApple様もユーザー(主にプロ階級の人だが)の声を聞く耳をまだ持っているんだ、という驚き。そして聞くだけではなく「失敗を認める」という企業文化。というか、Appleの本質は「どれだけ失敗の数を積み重ねられるか」にあるのだと思っているのだけれど、でも僕は素直に物理ファンクションキーが戻ってきて嬉しいと思う(細長いキーではなく、通常サイズなのもGood)。有り難うApple。現行のIntel Mac Proを考えると目茶苦茶安いとは言え、僕にはとても買えない値段だけど。
※これはAppleが強気に値上げしていると考えるのではなく、日本が経済成長せずに世界から取り残され、労働者の賃金が全く増えていない、むしろ低下していることが問題なのだと認識して欲しい。

元に戻すのに「5年」かかった

2016年の新型MacBook Pro発表時は「hello again」のキャッチを掲げ、如何にこれが偉大なFキーの再発明であるかを主要デベロッパーを巻き込んで声高にアピールしていたが、それだけに今回、物理キーに後退させるのはとても勇気が必要だったに違いない。よく決断したと褒めたい。

開発当時に何故、ユーザーがアプリケーション毎にカスタマイズ出来るタッチパネル型キーボードが便利だと思ったのか?それはこの記事を書いている時点でまだ存在しているMacBook Pro13インチの製品ページ(上図)に記載されている「最も頻繁に使うコマンドを必要な位置に表示するため、キーを押す回数が減り、時間も節約できます」の文言に表れている。そこには、あらゆる指先接触型インターフェースはタッチ型になるべきだという強い思想が見えていたけれど、ジョナサン・アイブという神の声がゴリ押ししたのか、あるいはiPhone成功体験以降の世代が企画・開発に関わったからそうなったのだろうか?
ただ、物事には限度というものがあり、丁度良い適度で快適なバランスがあったりする。ボタンが増え過ぎてもいけないし、狂信的ミニマリストみたいに極端にシンプル化し過ぎても使い難くなるだけである。スイートなポイント、それを見つけ出すことはとても大事。

無理矢理「政治」に絡めてみる

「5年」という歳月が長かったのか短かったのか。それでもAppleが今回「人の声を聞く」という真摯な態度をもって転換したのは、物理キー支持派の人間にしてみれば決して技術の後退ではない。かつて当たり前にあったはずの「日常」の復活である。大変喜ばしい。

ただ、これが生活の基盤となる社会だったらどうなるか。10年から20年かけて崩壊した社会を、たかが5年で元通りの希望の持てる社会へ建て直すことは容易ではない。大阪維新はたった10年でそれまでの生活を破壊することに成功した。最初は小さな政党であった維新の会が、メディアへの露出も手伝ってジワジワと支持層を広げ、ついに「選挙」という公式ルールに則って権力を握るに至り、さらにその悪夢的ビジョンを推し進めようと政党支持市民も一緒くたになって邁進している。この流れが行き着くところまでゆけば、失われた文化や公共施設はもう回復不能になる。TVを眺め呆けている一般市民がその事に気付くことがあるのかどうかさえ怪しいが、失われた社会はfunctionキーみたいにお手軽に、5年で元に戻すことは出来ないのだ。

元に戻そうと行動するなら、10年以上をかけた長期戦になる。

一先ず、キーボード全体がタッチパネルになるかもしれない…という悪夢的発想が再び頭をもたげてくることは無さそうである。一個人の庶民として、キーボードに関する瑣末な懸念に限って言えば、余生は安泰である。

個人的には、Appleの失敗エピソードを集めた本を誰かに纏めあげて欲しい。かなり売れると思う。