連載第27回
2022年2月6日
Mac miniを愛せるか問題

大きく出た。「Mac miniを愛せるか?」はしかし、ちょっと大き過ぎる。

無機質なものに対して愛情を抱けるかどうか、という問いの立て方がそもそも間違っているのだろうか。愛情を抱けるか?愛することが出来るか?という問いかけは、前提として「その対象を愛することは可能ではある、がしかし、その状態を受け入れるか拒むかは(※相手ではなく)貴方次第である」という状況が用意されている中で有効となる。
しかし、何せ相手はただの電子機器であり、第何次かのAIブームがやって来た時でさえ「単に相槌を打つ」事すらろくに出来なかったモノに対して、一方的な偏執狂的恋慕を抱くことはあっても、自身を犠牲にして献身するレベルに至る「愛情」を注ぐことは無いのではないか。
そもそも、自身を犠牲にしてまで相手に献身する状況が思いつかない。例えば、自分の身体の臓器提供を申し出て余命幾ばくも無いMac miniの命を救うなんて場面は馬鹿なパロディSF映画としても全く面白くない。

これまでの経験上、世間で言うところの小物ガジェット愛のような感情は、自分の中で言い換えれば単に「可愛いと思える」「仲間・同志のように思える」状態に至ることで自覚可能になる。では、その可愛さや仲間感覚はどのようにして形成されるのか。これもまた自分自身の狭い経験則に限って言い換えるとこうなる。

目標に向かって共に行動したという実感、そこで共有した時間の密度。

ここで「可愛さ」は対象のサイズが小さいことや、形状が何かしらの生物を想起させる場合に喚起されるであろう。だからMac miniを対象にしている今回のケースでは除外する。ではもう一方の「仲間・同志感覚」はどうか。共に行動したという実感は目標を達成したり、中途で挫折したとしても行動を起こした事実によって獲得出来る。その道程でMac miniは「良き道具」であらねばならない。時間密度は目標に至るまでの苦楽の度合いで濃淡が決まり、濃い経験をしたという感覚(充実感)が単なる道具を(身体の延長に成り代ることにより)「仲間意識」にまで引き上げるのだ。これまで使って来たMacで最も同志的感情の繋がりを持てたのは、実はApple純正では無い、MacOS9時代のMac互換機S900だった。

新参のインテルMac miniを使って何か作ろう。