連載第11回
2007年9月17日
その時に僕は

 人間、どこでどんな死に方をするか全く分かりません。多くの人はやはり長年家族と共に住み慣れた家で生涯を全うするのが本望なのでしょうが、現実はなかなか希望通りには行かない事の方が多いのかもしれません。ほとんどの場合、馴染みの無い消毒液の匂い立ちこめる病室の中で人生の終わりを迎えることになるような印象があります。その印象が正しいのか間違っているのか、実際のところを知りたいと常々思っているのですが、自宅にて静かに死を迎えたというケースはまずニュースにはなりませんし、具体的な数値となって提示される機会を目にする事はなさそうです(そもそも統計を取っていない感じもします)。そんな中、今年の6月に第78代内閣総理大臣だった宮澤喜一氏が死去したニュースはとても強く印象に残っています。その死因は老衰であり、そして場所は私邸でした。著名人の訃報で、その死因が老衰であることは非常に稀ではないでしょうか。まるで眠るかのようにこの世を去る、それは最も幸福な、理想の一生の終え方だと思うのです。

 本作のタイトルである「ツヒノスミカ」は、普通に表記すれば「終の住み処」であり「最後に落ち着く所。死ぬまで住む所」という意味になります。そこに主人公だろうと思われるおばあちゃんの画が重なると、ついこのおばあちゃんの人生の終わりに立ち会う家族を中心に据えたドキュメンタリーなのかと思ってしまうのですが、ところがどっこい、本作で死を迎えるのは人間では無く、このおばあちゃんが暮らしてきた場所、「家」それ自体なのです。

 この視点は新鮮でした。たとえば保坂和志の小説『カンバセーション・ピース』は、家がそこで過ごした人や時間を記憶するか、というところから書かれた作品であったし(著者は徹底した一人称と風景の詳細な描写でそのコンセプトの体現を試みます)、全くジャンルは異なるけれどブラジル映画『シティ・オブ・ゴッド』では、あるアパートの一室において、かつてそこで過ごしていた人々の姿を高速プレイバックさせていく場面が、いわば「アパート自身の視点」になっていて非常に強い印象を残しました。家というような具体的な箱でなくても、ある空間がそこを通過していったイベントを記憶しているという考え方は面白いし、人が死んで肉体による知覚・認識を失っても、決して世界は消失するわけではなくそこに在り続けるという確信のようなものを説明するのに、空間の側へ視点を移動させる発想が必要だったりするかもしれません。

 しかしながら実際のところ僕の周囲、一回り下の世代では家の死に立ち会うどころか、積極的に「我が家」を誕生させている人達の方が多くて、まあ、たまたま人生においてそういう時期、普通なら結婚して家庭を持っているような年齢なのですから、家族が安定した状況で毎日を暮らすことの出来るマイホームを持ちたいと考えるのは当たり前。30年のローンを組み、それ不動産屋だ市役所だ、などと契約書片手に奔走している姿を見るにつけ、大変そうだなあ…と他人事として突き放して傍観している僕が、とてもそんな大きな責任の生じるイベントに関わることは出来ないと考えているのは生まれ持った性格もあるけれど、まあ、それ以前に先立つものが無いという現実的な理由もあったりします。

 ところで自分の暮らす住居、いわゆる「マイホーム」について、人はどれだけの価値を見出しているんでしょう。例えば首都圏においてはすでに、自動車、いわゆる「マイカー」を所有することによってかつて得られていたステイタスへの信仰は明らかに失われています。マイカーは自分を誇示したり、社会的地位を示唆する象徴ではなく、今やただの移動装置に過ぎませんから、その流れで考えればマイホームもわざわざ所有する必要はないのではないか。たとえそれが土地の購入を含め投資的な意味合いを持っていたとしても、短期で絶えず市場状況が変化する今のご時世、なかなか自分の思い描いていたように物事は展開しなくなっています。ならば賃貸住宅、レンタル感覚でその時々をやり過ごし、常にフットワークを軽くして置く方が良いようにも思えます。もしかしたら20年後はさらなる気温上昇によって、東京に人が住めなくなっている可能性も十分あり得ますし、基本的には「起きて半畳、寝て一畳」が今の僕のスタンス。まあそれも独り身であるという状況に依拠しているのですけど。話は逸れますが、どういうわけか個人的に狭小住宅といったコンパクトな住居には惹かれるものがあって、その特集の組まれた雑誌を好んでよく眺めてたりします。ゆったりと好きな事に没頭出来る書斎のような空間が欲しいという気持ちがあり、壁一面には背の高さ以上の本棚が埋め込まれてあって、そして狭いながらもヘッドフォン無しで音楽を楽しめるような部屋もあったら楽しいだろうな、と空想したりするのです。実際にそれを実現すべくそんな雑誌を眺めているのではなく、空想していること自体が楽しいだけで、特に一戸建てでなくてはというこだわりも無く、頑なに狭小に惹かれているのは、やはり「起きて半畳、寝て一畳」が根底にあるのでしょうか。

 閑話休題。鑑賞前の少ない情報のもと本作に寄せていたのは、家を失うことによって同時に失われるような何か、例えば記憶というようなもの、さらにその瞬間に立ち会う人々の感傷が描かれていることへの浅はかな期待でした。というのも自分が以前、通常では考えられないほどかなり長期間に渡って過ごしていた6畳一間の安アパートを引っ越す際、それはそれは悲しいような、侘びしさのようなものを感じた経験があったからで、その感覚をスクリーンを通じて登場する家族の様子から再体験出来るかと期待したのです。僕にとってその狭いアパートの一室は様々な記憶が染み込んだ愛しい空間であり、そこから抜け出ることは必ずしも生活レベルのステップアップというような交換可能な価値と等価ではありませんでした。

 しかしながら、おばあちゃんの価値観は僕の期待をあざ笑うかのようなリアリズムに立脚していました。部屋を整理する場面での、おばあちゃんと息子(山本起也監督の父親)のやり取り、亡き夫(つまり、おじいちゃん)の遺品など見向きもせず、今の実生活において必要なものを何よりも優先していくところは抱腹絶倒せずにはいられません。ここでは同時に、68歳になる息子(山本起也監督の父親)の側が目の前にいる母親をいずれ失うであろうという現実に怯えている姿、そして物に付着している記憶にすがりついている様子が写し出されるのです。この瞬間、おばあちゃんの突き放した態度が明らかにしたのは、僕が期待していたもの、言い換えれば「しがみついていたもの」が、僕自身が未だかすかな未練を持ち続けている「物への執着」だったという事実でした。最近はその執着が希薄になっているのを自分でも感じる事が多くなったのですが、より価値があるかどうかはさて置き、今際の際の直前まで持っていけるのは「物」ではなく「体験(による記憶)」の方であるのは確かな事。その時に僕は、一体何を思い返しているのか。そしてその場面を内包する空間は、僕という記憶を留めることがあるのでしょうか。

ひと言メモ

監督:山本起也(2006年/日本/80分)ー鑑賞日:2007/04/22ー

■家の建て替えにまつわるエトセトラを描くドキュメンタリー。どうしておばあちゃんの住み慣れた家を壊すことになったのかと言えば、息子夫婦がもう高齢になったおばあちゃんと同居するためなのです。そこでやんわりと嫁・姑間における確執が垣間見れる瞬間が、ちょっぴり緊張感を煽ります。まあ、それも含めて笑えるのですが。
■「House(家)を築くことは容易いが、Home(家庭)を築くことは難しい」とは良く聞くフレーズですね。家を建てて燃え尽きないよう気をつけましょう。
■上映後、監督の舞台挨拶があったのですが、制作にまつわる裏話などを聞く事が出来て面白かったです。ちなみに家を建て直した後、おばあちゃんは何の問題もなく、その新しい家にすぐ適応したそうです。
■後半、突如葬列の場面が挿入されてドキリとさせるのですが、あれはフェイクだとの事。その次のカットでおばあちゃんが「?」という表情でカメラを見る場面でホッとします。