連載第12回
2007年9月18日
喜びは人を回す

 終盤、非日常な空間における男女それぞれのモノローグの場面。男が望むなら、女の姿を好きなだけ眺めていることが出来るにも関わらず、マジックミラーに対して背を向けた後、女も自分の姿を映していた鏡から身を隠し、呼応するように独白を続けます。静けさの中にも張りつめた空気が観る者の気持ちに食い込んでくるこの場面が、本作の佳境であることが何となく予感される、そこで二人が利用する道具が電話であるということ、そして相手の存在を間近に確認しながらも、マジックミラーによって互いに接触することが完全に阻まれている特殊な空間、それらが本作における主題の一つでもあろう「自分の内側に向けて語りかける」状況を誘発する装置として見事に機能していることには注目しておくべきでしょう。
 本来、離れた距離にある者同士を接続させるための装置である電話は、ここでも男女を近づける役目を果たすのですが、二人の直接的な接触を阻むマジックミラーの存在を含む特殊な空間が、翻って彼らを自分自身に向き合わせる事になる。それは男女二人の間にあった齟齬を解消して相互理解(または自分自身の理解)に至るために、実は接続するのではなく、ある程度の「距離」が必要だったことを示しています。

 ところが、互いに自分の内側に向かって物語る場面が最も観る者に感動を与える映画であるのは確かなのに、そこで何が語られたのか、もちろん男女の間にあった過去の出来事や、その耐えられない痛みが二人を分かつ事になった経緯の概要は、イメージとして辛うじて残っているのですが、そこで字幕として流れていった言葉のどのフレーズが琴線に触れたのかは、はっきりと覚えていません。もちろん言葉だけでなく、その特殊な空間に置かれた男女の表情がゆっくりと明らかに変化していく様、声の質感の変容など、視覚・聴覚を含めた全ての要素がドラマチックな波となって僕の中に押し寄せてきたのは確か。これこそ映画を観る体験の醍醐味に違いありません。

 しかし僕の場合、この「物語る映画」において、その物語る場面よりも強く心に残っているカットは、実は別のところにあります。この感想文では、その「画」の記憶について書き記しておこうと思います。

 男がリビングで家族等と共に、かつて幸福の絶頂だった頃に撮影した8ミリ映画を鑑賞している場面。そこで初めて、何となく知らされていた男の妻の姿を初めて見る事になるのですが、内側から滲み出ている幸福感が笑顔に昇華されていることもあり、女は想像していたよりもとても美しい人であることに驚きと喜びを味わいます。これだけでも十分に強く印象に残るのですが、8ミリ映画の中で弟夫婦を交え戯れている最中、女は突然くるくると回転し始める。僕はこの唐突な所作に一瞬戸惑ったのですが、それは行為の唐突さによるのではなく、「回転」という動作自体によるところが大きかったのです。
 僕は学生の頃に柔道をしていたこともあり、以前はTVでオリンピックの柔道の試合などの放送を眺めていると、選手の動きに感情移入ならぬ肉体移入(?)することがありました。たとえば相手の選手の足の動きに合わせ、応援している側の選手の立場になって上半身(座ってテレビを見ているから下半身は動かせない)を素早く反応させてしまったりします。それは長年肉体に染み込ませた記憶の再生なのですが、その再生は試合に似た状況に巡り合った場合にも起こります。たとえば路上で友人が戯れに足を引っかけようとすれば、僕は相手の視線から自分の視線を逸らす事なく相手の足を反射的にかわすことが出来ます(自分の足下に視線を移す事なく正面を見据えたまま避けるので、相手はかなり驚くのですが)。その瞬間、頭で動作を考えることはなく、肉体は独立して運動しています。

 では何故、女の回転運動が強いインパクトを持っていたのか。その回転は確実に女が過去においてバレエを習っていた期間がわずかにでもあったことを示しているほどには、一般人には真似できない滑らかさを持っていたのですが、もしこの映画がダンスや舞踏にまつわる物語、あるいはミュージカルであれば、別段何も感じなかったのは明らかです。しかしながら、その場面に衝撃を受けたのは、普段の生活において「喜びの表現として回転運動を選択する」という肉体的記憶が僕にはまったく不在であることに起因しています。おそらく一般に喜びの感情表現に使われるのは、手を打ち鳴らす、両腕を上げて歓声を上げる、飛び跳ねる、といったところが普通なのでしょうが、「くるくると回転する」という動作への接続は実はかなり特殊です。しかしその場面では、女は思わず全身を使って回転したくなるほどのエネルギーが、喜びを源として湧き出ていたのでしょう、その無邪気さは観ている側にも幸福を分け与えるのです。それはそれは美しい回転である、と。

 そして映画ラスト手前の場面。途中で先の非日常空間における感動的な場面を挟んでいた事でほとんど忘れていた衝撃に、再び出会う事になります。息子と再会した女は、ホテルの一室で再び唐突に「くるくると回転」したのです!ひっそりと僕の記憶の奥に刻まれていた喜びの表現を。8ミリ映画の場面の印象を引きずりながら、その後の展開を追っている最中、僕がずっと無意識下に考えていたのは、再びあの美しい女にスクリーンの中で出会うことが出来るのか、そしてフィルムの中で見せた喜びの表情をまた見る事が出来るのかという期待だったのかもしれません。その期待に応えた回転運動はしかし、8ミリ映画の時のそれと違い、流麗に揺れて流れるような滑らかさを失っています。なぜならば、そこには大きく成長した息子の体重が加わっているから。女が再び見せた、いつバランスを崩すかもしれない危うさを孕んだ回転運動は、その危うさも含め、不完全である人間が繰り出すがゆえの表現の美しさに満ちているように映り、女の内側から溢れる喜びは、またしても回転を通して僕に伝搬されたのです。

ひと言メモ

監督:ヴィム・ヴェンダース(1984年/フランス・西ドイツ/146分)ー鑑賞日:2006/08/08ー

■また機会があれば、是非映画館であの美しい人の回転運動を見たいと思います。でもほんの一瞬なんですけどね。
■もしあの時、右側のクルマを指さしていたら…と思ってしまいます。
■申し訳ないのですが、音楽の記憶が全くありません…。
■そんなわけで、8ミリ映画の引用箇所は誰かが要らない場面だったと言っても、僕にはとても重要だったのです。